妹尾河童『少年H』、この作品を書いて著者が伝えたかったこととは?
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妙な名前である!河童とは。 これが本名だそうだ。もともと親が名付けたのは「肇(はじめ)」だった。そのため、子供のころは、母が編んだセーターにアルファベットで名前を入れられていたことから、友人たちにH(エイチ)と呼ばれるようになったという。この名入れのセーター、神戸の外人では流行っていたようだ。神戸に居留している外人との付合いのおおい妹尾一家。これを真似たというから、少年Hのお母さんもなかなかやるな!と思われる。
だが、本人は気に食わなかったようだ。肇という名も好きになれない。旧制中学を卒業してすぐに働き始めたが、自らを河童と名乗った。仕事仲間をはじめ、知り合った全てに「私の名は河童」と伝えてている。でなければ河童という名前で呼ばれるはずがない。家庭裁判所に届けでて、正式に改名したというから明らかに変わり者ということだろう。
*天才少年、妹尾肇!
このH少年の父親(盛夫)も秀才だったようだ。広島県のとある郡部のなかでは、一番勉強ができたようだ。しかし、父の父(Hにとっては祖父)が散財して家が滅んでしまう。盛夫は将来をかんがえ、神戸の洋服仕立屋の小僧になった。ここで修行をつみ、成人したときに独立したようだ。この父、かなりの物知りだった。長男のHは、何でも聞きたがる習性を持っていたが、それ全てにたいし丁寧に答えている。
*特殊な環境で育つ!
父親は、スーツの仕立屋だった。おもな客は、居留地内にいる外国人である。Hは父について外国人宅にいったりしていた。これは貿易都市・神戸に住んでいたからで、日本人でやたらと外人と接触する人は当時いなかったはずだ。また母の敏子はクリスチャンだった。この神戸という土地にはプロテスタントの教会がいくつもあったという。
敏子たまたま知り合った牧師の話を聞いて入信したのだ。夫の盛夫やH少年もキリスト教徒となった。このH少年は、完全な宗教に2世と言える。だから聖書の教えを信じてはいなかった。しかし、「門前の小僧、習わぬ経をとなう」とあるようにH少年もまた「聖書の一節」をスラスラと暗唱することができた。
*少年H、書くキッカケは?
著者の河童さん、舞台装飾では、かなり知られた存在である。友人や知人のなかには、作家や芸能人などが多くいるようだ。そういった人の集まりで、子供時代の話をすると、「本にして発表しろ!」という声が多かったと言う。
それともう一つ、戦争が終わり50年以上が過ぎたこと。戦争を知る人がどんどん亡くなっているという危機感があったようだ。どういう時代なのか、語っておかなければいけない!そんな使命感により著したとされる。河童さん曰く「子供にこそ、読んでもらいたい!」と。だから本のなかの漢字に「ルビ」を振ったと言う。
*戦争は負けると思っていた!
日本中のほとんどの子供は、当時の教育により「日本は米国英国に勝つ!」、そう信じていた。しかしH少年は違っていたようだ。偶然手に入れた絵はがきにあった米国のエンパイアステートビル。この建物、102階の高さがあると言う。「こんなもの造る国に勝てるはずない!」。戦争当初から思っていたという。
敗戦後、米国兵士が神戸の街にやってきた。旧制中学の射撃部で日々訓練していたH少年。米兵がどんな銃を持っているか知りたくて仕方ない。H少年は似顔絵を描く才能があった。米兵の絵を描くことで、まんまとその銃を間近で見たという。日本で使っていた三八式銃より軽くて小さい。そのうえ、30発も装弾できる。これで日本は勝つのは無理だろう!そう思ったと言う。
*終戦後、態度が変わった人々!
戦時中は「鬼畜米英」、つまり米国人英国人は鬼や畜生のようなものとされていた。しかし、戦後になるとほとんどの大人たちは態度を180度かえてしまう。そして謝りもしない。これにH少年は怒ったようだ。学校の先生に対してもそれは容赦なかった。
そんな先生の授業には出席しなかった。だから旧制中学を卒業できないと本人は思っていたようだ。だが、これをよくわかっていた先生たちもいて、落第寸前で救ってくれたという。H少年、17歳で働きに出る。目指したのは画家だったが、たまたま知遇をえた画家の小磯良平による紹介で、画家が集う看板屋に職をえる。その後の河童氏の才能は、ここで学んだことによるものが大きい。