きっと、上手くいく。 どうせ、上手くいかない。 つい最近参加したお話会で聞いた事。 ”きっと”と”どうせ” ”きっと”より”どうせ”のほうが可能性が高い時に使っているよね、と。 それこそ確実に起きると思っていること、さらに言えばネガティブな事に対して使っている。 だったら”どうせ”を起きてほしいことに使ったほうが良いよね、とお話会では言われた。 わずかな言い回しの違いといえばそれまでだけど、使う言葉は間違いなく心に影響を及ぼしている。 たかが言葉遊び。 けれど簡単に
自分のためにやる事、やっている事。 人のためにやる事、やっている事。 誰にでもあると思う。 もちろん誰かのためなんて思わずにやっていることもあると思う。 意外と、というか割と、誰かのためって思ってやることって、何も返ってかなかったりする。 もっとも押し付けだったり自己満足だったりもするから、端から返ってくるものではない気もするけど。 子どものためにも言えるのかもしれないけど、あなたのためっていうのは、結構言う人の都合や考えだったりする事が多い気がする。 逆に誰かのため
※この記事は実験的にアメブロと同時投稿します。 新型コロナに対して全く新しいワクチンが作られた。 mRANワクチン、レプリコンワクチン。 効果の程は省略するけれど、同贔屓目に見てもコロナは収まっていない。重症化云々は正確に比べられる対象がないのだから、本当は効果があるかは分からない。打ってない対象に出来る人は、ほぼifの世界の人だから。 ということは、ほとんどの人は打たないと発症する、重症化すると信じてるということだろうか? それとも、打たせて貰えるのなら打って貰おうと
今。 流れる時間に切り取られた、微かな時。 上流から流れる水に触れるように、今感じている今は、今という一瞬の連続の積み重ね。 それこそ感じた今も一瞬で過去に流れているのだから。 流れ来る未来も、流れ去る過去も、本当の意味では感じ取れない。 未来は空想で、過去は記憶でしかなく、川の流れのように逆らい歩くことも、流れに沿って歩くこともはできないのだから。 時の流れの中では、その場で立ち続け、感じることしかできやしない。 その一瞬をどう感じ、どうするのか。それしかできない。
3年ほど働いたバイト先が倒産してしまった。 もっとも職場で勉強することはない気がしてたから、少し前から辞め時だったとは思っていた。 まぁ、だから強制終了になったのかもしれないけど。 なんにせよ、終了という終わりを迎えたのなら、終わりは始まりに繋がるスタートの合図。 ルノルマンカードで言えば棺、タロットで言えば死神のカードが出された状態。 どちらも死のカード。そして再生の兆しも意味する。 死んで終わりではなく、一つの終わりは、別の始まりでしかない。 ならばこの終りは、何か
偶然は必然という人がいる。 一方、これを否定し、偶然は偶然でしかないという人もいる。 けどこれは意味のない分け方だと思っている。 何故なら偶然だろうと必然だろうと、起こった事柄から何かしらの意味や意義を見いだせなければ、あるいは一見は見えないチャンスのように気付くことができなければ、偶然も必然も同じようなものだから。 もちろん気付かなかったことが必然だとも言えるけれど、後でチャンスに気付いて後悔しても、結果としては言い回しの違いでしかない。 もしかすると偶然は必然という
種を蒔き、 花を咲かせ、 収穫する。 占いなどで見かける、自分の内に育つナニカを植物にたとえたもの。 種を蒔いても芽も出ないもの。 芽が出ても枯れるもの。 育っていくが、忘れ去られてしまうもの。ひっそりと生きている場合もあるけれど。 ある程度大きく出来たけれど、事故などで枯らしてしまったもの。 そして、何かがあっても枯れることなく、順調でなくとも無事に育っているもの。 まだ花には至っていないかもしれないけれど、 今は環境が違っているかもしれないけれど、 枯れず強く生き
最近、テントウムシをちょくちょく見かける。 まぁ、草があるところやテントウムシが餌にするアブラムシがつきやすい植物があるところだから、いても不思議ではない。 赤は目立つというのもあるかもしれない。 それでもテントウムシを見かけると、何となく良いことがありそうな気がしてしまう。 幸運の話もあるけれど、単純にちょこちょこと歩き回る小さく丸い姿は愛らしいから。 幾度となく見かけると、思うことがある。 幸運だから(あるいは幸運になるから)見つけられるのか、もしくは見つけられるから
日本には色々な発酵食品がある。 味噌、醤油、酒などを造る麹、糠漬けやすぐき漬けなど漬物、納豆、いしるやしょっつるなど魚醤。 身近にいるナニカが変化させた食品は美味しく、日持ちが良いから重宝されてきた。 もちろん、かつてはナニカが何者かなんて分からなかったはずだ。 けれどその変化が起こる条件を特定していき、知らないうちにナニカを活用していったのが日本食文化だと思う。 手前味噌やミキは造る人や環境によって味は変わる。 手で握ったオニギリもある種の発酵食品だという人もいる。
彼は最後の日、何を思っていたのだろう? 病気がちで、不自由な体で、けれどただ懸命に生きていたように見えた、動画先の白い金魚。 ぼんやりと、隣の水槽を泳ぐ同種の金魚を眺めて。 餌をくれ、治療をした飼い主を眺めて。 静かに、さして動かず。 傍目には苦しんだ様子もなく。 最後までただ眺めていた。 羨ましい? もっと見ていたかった? 遊びたかった? もっと生きたかった? 忘れない? 本人以外、誰にも分からない。 けれど多分、最期の時を悟り、出来る限りの生を、最期の最期まで堪能
「自分の為の料理を作ろうよ」 以前働いていた職場で上司に言われた言葉。 聞いた時、もやっとしたのを覚えている。 本人は多分、もっと自分を出していこう、程度の意味で言ったのだと思う。 あるいは、アイデアを出す方向かもしれない。他の仕事で自分らしさを出させたいといった感じを覚えたことがあるから。 けれどそもそもの話、大事にしているものが違う。 上司は飲食店というある意味非日常の場だからというのもあるのだろうけど、自分にしか出来ない仕事を求めてきた。 もっとも、だからか基礎の
自業自得。 イメージだけど、大抵は自分、あるいはある人が原因でそのに悪いことが起こった時に使っている気がする。 でも漢字を直訳するとすると、自分の行いで自分が得る、になる。 良いも悪いもない。ただ自分の得るものは自分の行いで決まるというもの。 もちろん直ぐに返ってくるとも限らないし、巡り巡って返ってくるかも知れない。 損とか益とかいうけれど、周り巡って来たものが自分にとって良いものか悪いものかということだけで、行いの結果として何かが返ってくる。 もっとも、スピリチュ
良いことも、悪いことも、いつかは自分に還ってくる。 よく言われること。 因果応報、自業自得。 起こっていることの原因は自分にある。 自分のしたことが自分に還ってくる。 言葉もそう。 その場では自分の都合がいいことを人に言えたとしても、同じような状況が自分に当てはまることなんてよくあると思う。 無意識かもしれないが、自分のことを棚上げして何かを言っても、現実は上げた棚から落ちてくる。 自分の行いが自分に還ってくる。 思いも結果も、廻るものかも知れないと、最近思う。
責任の所在はいつも自分にある気がする。 件のパンデミックにしろワクチンにしろ、どうなろうと、どう選ぼうと、押し付けは有っても責任は取ってくれない。 向こうはあくまでお願いで、アドバイスで、強制はしていないから。 逆に親切なんてものも、そういうもの。 相手がどう取るかは分からないけど、ある意味では押しつけだから。 それでも喜んでもらえたらと行うのだろうけど、受け取ってもらえなくても当たり前。 最も、あなたの為のだとのたまったり、親切を装ったり、自分の都合や思考をを押し
思い込み。 少し前にアメブロに料理にあった思い込みのをネタに書いた。 一応、宣伝兼ねて貼り付け。 ちなみに日本酒紹介ばっかのブログです。 話戻して・・・ 出汁が必要とか中華には中華スープがないと作れないとか、でも実際はなくても作れるものは多い。 のだけれど、必要だと思いこんでいた、という話。 こういう話は多分、何にでもあると思う。 気付いていないものなんて、多分幾多でもある。 そういう誰にでもある思い込み。 ふと思ったのだけど、引き寄せの法則などでいうブロックなのでは
最近繋がる縁は、不思議と面白いモノに繋がっていく気がしている。 例えば、キッカケは何となく面白そうと思ったお話。 WS等でたまたまご一緒になった人との会話の中で、コレはって思ったから、先の事は分からないけど、とりあえずとSNSで繋がってみる。 その程度の気持ちで繋げた縁だけど、さらに愉しいモノに繋がっていった。 例えば、ちょっとお世話になっている人が誘ってくれたお話会。 面白そうと感じ参加してみると、予想以上に広く深い話が聞けた。 そもそもWSに参加したキッカケも深い