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将門を祀る!根元神社(奥多摩町)

 JR青梅線の終点、奥多摩駅で下車。ここは東京の駅の西のはずれにある。駅舎を出ると駅前の空をたくさんの燕が飛び交っていた。駅舎のどこかに巣があるのだろう。

奥多摩駅

 駅の向かいに観光案内所(ビジターセンター)があり、ここでハイキングや登山、キャンプなどの情報を得ることができる。

 駅前から道は奥多摩湖(小河内おごうちダムによってできた人口湖)方面に向かう青梅街道と、日原にっぱら街道に別れている。日原街道は日原鍾乳洞へ向かい、更にその先は東京、山梨、埼玉の境の雲取山くもとりやまにつながる。

 私は日原街道の方へ歩いた。駅のすぐそばに石灰の工場があり、静かな山間の中で唯一轟音を発し続けている。ここでは採掘された石灰を粉砕、焼成して生石灰を生産しているという。

 埼玉県の秩父もそうだが、この辺りの山も石灰岩でできているのだろう。日原鍾乳洞もやはり石灰の洞窟なのだし、信じられないが大昔はこの辺りは海の底だったのだ。

 工場の下の道を左に曲がって日原川にかかる北氷川橋を渡った。

日原街道
遠くに先ほどの石灰工場が見える

 根元神社の正面ではなく、横手から入ることにした。大きな杉の木立の中に神社が見えた。

根元神社

 根元神社の祭神は少彦名命。神社の創建年は不明という。『新編武蔵国風土記稿』には子神社とあり、氷川村栃久保地区の鎮守だった。

すごく急な階段
愛宕神社
子安神社
石地蔵と一緒に祀られている

 根元神社の横手、末社の愛宕神社の隣に将門神社がまつられていた。元は峰畑という地区にあったのだが、地区に住む人がいなくなり、ここへ遷されたのだそう。

将門神社

 この奥多摩の氷川というところには、他にも将門を祀った神社が三、四カ所あるといわれている。しかし、人口が減り、参る人も絶えて、廃神社になっているところも多いようだ。地元の人も良く知らないということも多いらしい。

 峰畑にあった将門神社の社殿は、ネットで見るともはや残骸になっている。ここの社殿も大分年季が入っているように見える。ずいぶん前にここに遷されたのだろう。

 この将門神社の来歴はよくわからない。が、やはりこの辺りも中世三田氏の支配地だった。このシリーズで何度も出てきた三田氏は、桓武平氏の相馬氏の流れをくむ一族で、平将門の後裔と称している。三田氏の支配地に将門伝説が多いのはそのせいだ。

天狗の像と十二天天狗の由来の碑
昔十二天という場所に若者たちが山仕事に入ると、一人の童子が現れて「ここで木を伐ってはいけない」と警告するが、若者たちはこれを追い払う。するとその夜、山小屋を天狗が壊れんばかりに揺さぶった。昼間の童子は天狗の化身だったのだ。
この石像は山小屋近くに祀られていたが、小屋が崩壊してこの神社に遷された
なんだろう?
これも何かの神様の祠?

 奥多摩の地図を見ると、将門馬場という山がある。もちろん山の頂上で馬が調練できるような場所ではない。
 また、城という小字地名があるが、将門が城を構えたという伝説がある。実際城の遺構らしき地形があるらしいが、将門よりもずっと後の時代のものではないかという。

 東京都と山梨県の境に七ツ石山があり、将門一行が追手から逃げるルートにあたるという。
 伝説によれば、将門は影武者七人衆の藁人形を作って、藤原秀郷、平貞盛を睨むように立たせた。秀郷が藁人形に矢を射ると、人形が七つの石に変じたという。

 追い詰められた将門一行は雲取山を目指すが、途中で将門の妻や家臣の妻、姫が力尽き、九十九人もの女性たちが集団自決をする悲劇が起こる。雲取山の北に九十九柱の御霊を祀る九十九つくも神社もあるそうな。

 いずれにしても、健脚とは程遠い私はとても行く気になれないような場所ばかり。

 氷川地区の将門伝説関連の場所を巡った、山と渓谷オンラインのブログと、Japaaanの七ツ石山登山のブログのリンクを置いておきます。


石尾根の将門伝説(将門の城山、将門馬場、城城跡など) - 水根沢林道、水根山、将門の城山、将門馬場、大堀、六ツ石山、三ノ木戸山、峰畑峠(越路の杜)、峰畑の将門神社、峰畑集落跡、絹笠集落跡、絹笠神社、三ノ木集落、三ノ木将門社、城集落、城城跡(栃久保城跡)、羽黒三田神社、根元神社 - 2021.05.01(土) - 山と溪谷オンライン (yamakei-online.com)

生きるか死ぬかの瀬戸際…平将門が迷走した悲話が残る東京都の最高峰「雲取山」とは? | 歴史・文化 観光・地域 - Japaaan #日本史  




 


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