将門を祀る!将門神社(奥多摩町)
JR青梅線は御嶽駅を過ぎると、いよいよ山深い風景に変わっていく。山の間の谷底をくねくねと蛇行しながら流れる多摩川と、斜面を削って通る青梅街道。街道の少し上を通る鉄道。トンネルも多い。
鳩ノ巣駅で下車した。ここは鳩ノ巣渓谷で有名なところ。キャンプ場などがあり、釣りやハイキングなど自然を楽しめる行楽地だ。
上の散策まっぷを拡大して見ていただくと分かるが、駅の右、電車の絵のすぐそばに目的地の将門神社がある。まっぷの茶色い道は舗装していない山道と思うが、こんな単純な道ではない。
駅を出て青梅街道を東へ歩く。青梅街道は今でこそ二車線道路だが、昔はもっと狭かっただろう。山の斜面を削っているので、歩道などほとんどなく、なるべく壁に沿って歩くのだが、上から落ちてきた杉の葉や小枝が道の端に積もって歩きにくく、どうしても車道にはみ出てしまう。
もっとも、こんなところを歩く人はほとんどいないだろう。
道が大きく曲がったところで、目の上の壁に将門神社の看板があった。
「将門神社 つつじ園 この上徒歩三分
海音寺先生原作 風と雲と虹の主人公 平親王 平将門 旗上げの地」
昭和五十一年四月吉日の寄贈。ずいぶん年季が入った看板だ。
この看板にある『風と雲と虹と』は海音寺潮五郎原作で、昭和五十一年[1976]にNHKの大河ドラマとして放映された。平将門は加藤剛。将門の妻を真野響子。田原藤太を露口茂。藤原純友を緒形拳が演じていた。
大河ドラマ放映を記念してつつじ園が寄贈されたのだろう。残念ながら、確認できなかった。もうなくなってしまったのか。花が咲いていたら気付いたかもしれない。
看板にある平親王だが、本当なら平新皇だろう。将門は関東の国府を次々と襲撃して占領し、坂東に独立した政権を建てようとした。自分は桓武天皇の子孫だから、天皇になる資格がある。新しい天皇、新皇を名乗ろう━━。
・・・どこまで史実かわからないが。
その看板のすぐ下から、将門神社に向かう細くて急な道が出ている。
え~っ、こんなところを登るのか。壁のように切り立ったところにできた細い道なので、かなりきつい。帰りはこの急なところを下るのだ。往きはきついし帰りは怖い。怖いながらも通りゃんせ・・・である。
ツキノワグマに遭遇するのはこわいので、100均で鈴を買ってバッグに取り付けた。わざとらしくチリチリ鳴らしながら登り始めた。
少し登ったところで下を見ると、渓谷に二つの橋が架かっているのが見える。手前が鳩の巣大橋。奥が将門大橋という。
将門大橋は奥多摩南岸道路という比較的新しい道のためにかけられた橋だ。上の写真の手前に見える青梅街道(赤い道)の先に、その名も将門という交差点があり、そこから伸びている道路だ。
さらに坂道を登ると、朱いお堂があった。
豊玉堂というらしい。足元が荒れ放題で近寄るのは断念した。
少し進むと今度は崖側に石碑がある。将門公一族と交通受難者のための供養塔らしい。
細く傾斜のきつい坂を登っていくと、突如民家が一軒森の中に現れた。人がいる気配はないが、廃墟でもなさそうだ。こんなところに何のため。
そして、漸く鳥居が見えてきた。
石段を登ると小さな広場に出る。ここまで来て感じたのは、この不便な山の中の社にしては、細い参道も石段も境内も落ち葉が少なくきれいだということ。誰かがよく掃除をされているに違いない。
将門神社の祭神は平将門と八千戈命。
この神社の起こりは日本武尊が東国を平定する際に、須佐之男命と大己貴命を祀ったことと伝わっている。穴沢天神社というそうだ。
そこへ鎮守府将軍藤原利仁が八千戈命を祀り、多名沢神社を建てた。
その後、平将門の乱の後に、将門の遺児将軍太郎良門が父の像を刻んで祀った。これが平親王社であるという。
この神社の神職の家に伝わる『平姓相馬家伝系図』によると、良門が将門の霊を祀ったのが天徳元年[957]のことで、そのあと秩父に向かい、東北、北陸、山陰、山陽道を巡って味方を集め、播磨国三石から新田城を攻めたが、渡辺綱に討たれたという。
しかしこの話は江戸時代の十七世紀後半に成立した『前太平記』のストーリーそのものだ。
『前太平記』のなかで、将門の娘の如蔵尼は腹違いの弟良門を奥州でひそかにそだて、十五歳になった時に将門の遺児であると教える。彼は密かに元服して良門と名乗り、父の敵討ちをしようと姉の元を出奔する。
三石の新田城とは多田の新発地満慶の城。満慶とは将門謀反を朝廷に注進した六孫王源経基の嫡男、多田満仲のことである。満仲といえば頼光の父であり、藤原摂関家に仕え、後の武家の棟梁清和源氏の基礎を築いた人でもある。
良門を討った渡辺綱とはもちろん、源頼光に仕えた四天王の一人である。
永正元年[1504]この辺りの領主だった三田弾正忠次秀がこの地域の総鎮守とし、神剣を奉納した。
三田氏は将門の子孫を称している。
江戸時代にはこの神社は棚沢村東部地区の鎮守だった。
明治四十一年[1908]朝敵将門を祀るのは好ましくないという理由で、西部地区にある熊野神社に合祀された。
しかし、昭和五十年[1975]に当地を整備し、熊野神社から神霊を遷し、再び神社を復活させた。
例のNHK大河ドラマが五十一年の放映開始だが、そのことと関係があるかは分からないが、もはや皇国史観の時代ではなくなったということだ。
手水舎の横の小道を進むと、御幸姫観音像がある。
傍らの石碑に寄れば、御幸姫は将門の寵愛した妾で、将門没後、棚澤の小字安戸(俗称将門の原)というところに一族と共に移り住んだ。姫は没後、原の中央に埋葬され、御幸塚と呼ばれていた。
終戦後(先の大戦のこと)、塚は荒廃し人々からも忘れ去られていた。すると、姫の霊魂なせるが如き現象が起こったという。が、具体的にどんなことが起きたのかは石碑には書かれていない。
とにかく、人々の御幸姫に対する追慕の念がよみがえり、昭和五十四年[1979]に御幸姫観音を建立することになったとある。
石碑や灯篭の寄進者に三田という苗字が見えた。将門の子孫、三田家は今もこの地に暮らし、神社の神職を勤めている。
さて、この神社の奥には穴沢天神や、将門山不動尊(珍しい三面不動尊)があるのだが、私の膝がもう進むなというのでやめておいた。実はここの前に二俣尾の海禅寺に行き、休憩も取らずにここへ来たので、少々くたびれたのだ。体力も根性も無いのだ。
往きに登って来た急坂を怖い怖いといいながらそろそろ下って駅へ戻った。
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