四谷怪談の現場を歩く(17)
於岩稲荷の変遷
お岩さんパリに行く?
地下鉄の茅場町駅を出て霊岸橋を渡った。ここは新川。別名霊岸島という。ここにもう一つの於岩稲荷田宮神社があるのだが、少々道が入り組んでいて、スマホの地図アプリの案内でたどり着くことができた。
下町は住宅に庭と呼べるものがほとんどなく、緑が少ない地域だが、この神社は小さいながらも木々に囲まれ、地面も美しい苔に覆われてほっとする境内だ。
ここは普段は神主が常駐していないのか、賽銭箱のそばに「御朱印は近くの鉄砲洲稲荷で授けています」というメモが置いてあった。
江戸が明治になって、四谷の於岩稲荷は受難の季節を迎えた。明治新政府が社格を付与した神社だけを残して、それ以外の神社を廃止、または合併整理したのだ。神社は「国家の祭祀」でなくてはならぬ。その社格に当てはまらない神社は淫祠邪教と決めつけた。
於岩稲荷も淫祠とされてしまった。稲荷神社の祭神は宇迦之御霊神(御食津神)だが、於岩稲荷は実質お岩さんを祀る神社なので、これがいけなかったのだろうか。明治十年[1877]には、於岩稲荷を祀る民谷弥平太なる人物が逮捕され、懲役三十日の実刑となった。
ところがこれが複雑で、この弥平太という人は本当は小川と言って、田宮家の当主の義宜氏に金を払って、於岩稲荷社と称する神社を経営していたらしい。つまり、この時於岩稲荷は二軒あったようなのだ。
もっとも本家於岩稲荷は明治五年に田宮神社と改称している。これは、於岩の名を外すことで、普通の稲荷社と同じで淫祠の類ではないと印象付けたかったのだろうか。
弥平太氏は自分だけが逮捕されたのが気に入らなかったとみえ、警察署長を誹謗する文書を内務卿大久保利通に送り付け、その大久保卿が紀尾井町の変で暗殺されると、それに乗じて新聞社などに当路の官吏を斬害すべしという落書を投げ込んだり、田宮氏を妬んで怪文書をまいたりした。
結局事件は翌明治十一年まで引きずって、件の小川弥平太氏は七十日の懲役刑に処せられた。
明治十二年[1879]、町内で火事があったのをきっかけに、神社は越前堀一丁目四番地(現新川二丁目二十五番地)に移転することになった。
この土地は初代市川左団次が提供したそうだ。四谷では遠くて不便だから、ここへ神社を作ってくれということで、歌舞伎関係者や花柳界の信仰を集め、大層にぎわったという。四谷の跡地は於岩稲荷保存会の管理地になった。
それがまた元の四谷に戻ったのは昭和二十七年[1952]のこと。そのきっかけは、四谷で陽運寺が境内に於岩稲荷を祀り、本家と名乗ったからだった。そのため、つい最近まで両者の関係は悪かったという。(現在は以前ほど悪い関係ではないというが、丁寧な無視といったところか)
ところで、明治二十四年[1891]、なんとお岩さんがフランスのパリに渡るという新聞記事が残っている。どういうことかというと、パリのマルド公園内にレンガ造りの社殿を作り、於岩稲荷を分祀しようというのである。発起人は田宮義宜氏。
この神社が現在どうなっているかは不明である。
まさか、そこまで確かめに行くかって?それは勘弁願いたい。
今回が最終回。長々お付き合い感謝します。
●参考資料
東海道四谷怪談 新潮日本古典集成 郡司正勝 校注 新潮社
新釈 四谷怪談 小林恭二 集英社新書
四谷怪談 祟りの正体 小池壮彦 Gakken
検証 四谷怪談 皿屋敷 永久保貴一 朝日ソノラマ
怪異 東京戸板がえし 荒俣宏 監修 田中聡 著 評伝社
日本妖怪巡礼団 荒俣宏 集英社
ぼくらは怪談巡礼団 東雅夫 加門七海 KADOKAWA
弾左衛門とその時代 塩見鮮一郎 評伝社 江戸庶民風俗図絵 三谷一馬 中公文庫
耳嚢で訪ねる もち歩き裏江戸東京散歩 人文社
切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩 人文社
別冊歴史読本 江戸切絵図 新人物往来社
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