豊島氏の滅亡と伝説(5)
石神井城━━練馬区(中編)
城跡の西側に氷川神社がある。この神社は城の鎮守でもあった。
境内に豊島泰経の子孫が元禄時代に奉納した石灯籠がある。
また、城跡の南側には三宝寺がある。この寺は元々別の場所(石神井池の南側の野球場の辺り)にあったのを、石神井城が落城した後に移転したという。一説に、道灌が移転させたとか。
寺の背後が高くなっている。城の遺構(土塁?)の一部だろう。寺の裏が城の主郭部分になる。
この高くなったところに登ってみる。小路が木々の間を縫うように通り、傍らに点々と石が置かれている。石には番号とそれぞれ違う寺の名前が刻まれている。実は四国霊場八十八か所をここを歩くだけで巡れてしまうのだ。
さて、ここからは楽しい伝説の咄。
石神井城を包囲され、もはやこれまでと観念した泰経は、白馬の背に家宝の金の鞍を載せてまたがり、三宝寺池に飛び込んで馬もろとも入水して果てた。泰経には照姫という娘がいたが、後を追って池に身を投じた。
今でも三宝寺池には金の鞍が沈んでいて、池のほとりの「照日の松」に登ると、金色に光るものが見えることがあるという。
照姫自身が金の鞍を着けた愛馬に乗って、行基菩薩の守り本尊だった十一面観音像を胸に抱き、池に身を投じたという話もある。
馬に金の鞍を載せて城を脱出しようとしたところ、鞍の重みで馬がおぼれ死んでしまったという、何だか情けない話もある。そして黄金の鞍は池の主になったという。殿でも姫でも馬でもなく、鞍が主になるとは珍しい話だ。
この金の鞍を見つけてやろうと、明治時代に挑戦する人が出た。一か月に渡り池の隅々まで探し回り、そのことが評判を呼んで見物人が押し寄せ、売店まで出る騒ぎだったそうだ。結局何も見つけ出せなかったが。
その後、大正時代にも探した人がいたという。
池の中ではないが、太平洋戦争中、城跡の山で、軍隊によって防空壕を作るため深く掘り進んだところ、「黄金に輝く何か」を発見したが、敗戦になれば米軍に接収されてしまうからと、埋め戻してしまったという。
池の北側に、「姫塚」と「殿塚」がある。照姫と泰経を祀った塚という。
石碑の表はそれぞれ次のように刻まれている。
文明九年十月六日落城之砌城内三寶池入水落命
古墳 姫塚 石神井城主豊嶋太郎泰経二女照子姫之碑
文明九年十月六日落城討死
古墳 殿塚 石神井城主従五位上左衛門尉豊嶋太郎泰経之墓
そして裏面にはこのように刻まれている。(姫塚)
縁之者 小谷一郎圀次建之
殿塚の方は「後裔」とある。
照姫は長女で、次女は秋姫といい、秋姫は後に肥後国の菊池氏の一族、内田政治と結婚した。その子孫が小谷圀次だと言われている。
しかし、碑文では照姫は二女とされている。間違いだろうか。
なお、十月六日を命日とするのは、豊島氏の菩提寺、道場寺の「口伝」によるという。
道場寺には泰経や照姫の位牌があるらしい。そして、墓地の片隅には泰経夫婦と照姫の墓と称する石塔がある。墓地は関係者以外は立ち入りできず、豊島氏の墓も非公開だそうだ。
どうも、豊島氏関係の遺跡は非公開とか立ち入り禁止が多い。
実は昔、二度ほど墓地に入ったことがある。そして豊島氏の墓も見た。
写真を撮ったのではと思い探してみたのだが、見つからなかった。道場寺の写真はあったので、カメラは確かに持って入ったのだが、ネガを見ても墓らしいものは写っていなかった。どうやらフィルムが足りなくて撮影できなかったようだ。
墓は五輪塔で、一部失われた石もあり、歳月を感じさせた。卒塔婆があり、その中に「照」の文字がある戒名があったので、「ああ。これが照姫の墓なのだな」と思った記憶がある。
そんな落城伝説をもとに、毎年石神井公園では「照姫まつり」が行われている。今年が第36回だそうだ。
照姫まつり (teruhime-matsuri.com)
祭りでは照姫の他に、泰経やその奥方、家臣の武者などが石神井の街を行列する。(衣装は練馬区の地元企業、東映撮影所全面協力!)
初期の頃は主役の照姫と泰経の奥方は練馬在住の芸能人が、泰経は練馬区長だったが、現在では区民から選出されている。
そういえば、昔アニメも作られた。
アニメ制作は東映動画(現、東映アニメーション)だったと思う。区内の図書館にあったと記憶するが、あれは今どうなったのだろう。
つづく