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四谷怪談の現場を歩く(9)

死体遺棄現場

実録、戸板の男女

 宿坂通りを下ると神田川に出る。江戸時代は江戸川といった。現在、東京都と千葉県の境を流れている江戸川とは別の河川である。
 そこに面影橋おもかげばしがかかっている。江戸時代は姿見橋すがたみばしといった。(面影橋と姿見橋は違う橋という説もある)当時、周辺は狐や狸の棲むような竹林や、田んぼが広がる寂びしい場所で、高田とか早稲田とか呼ばれていた。
(芝居の中では川の名は姿見の川となっていて、橋の名と同じになっている。実際、当時この辺りの川を姿見川と呼んだかどうかは分からない。また、神田川と江戸川の境も不明瞭である。江戸川はここより少し下流の江戸川橋や関口の辺りから下流ともいう)

面影橋

 お岩と小平の死体を打ち付けた戸板は、秋山長兵衛ら伊右衛門の子分たちによって夜陰に紛れてここから川に遺棄された。

 実は実際に戸板に釘で打ち付けられた男女の遺体が、神田川で発見されるという事件があったそうだ。これはある旗本が囲っていた妾が、主人の中間と密通して露見し、その罰として戸板に打ち付けられて神田川に流されたという。南北は芝居の随所にこうした実際の出来事を取り込んでいる。

 ここを遺棄現場にするためには、新宿の四谷では遠すぎる。が、雑司ヶ谷四ツ家なら、坂を数百メートル下るだけだ。出来過ぎと思えるほど、うまい場所に「ヨツヤ」という場所があったものだ。

面影橋から下流を望む
こんな街中だが、意外と水はきれいでコイが泳いでいたりする

 面影橋といえば山吹の里として知られている。太田道灌が鷹狩りをしていて雨に遭い、付近の農家に雨宿りに立ち寄った。そしてその家の娘に、雨具を借りれないかと尋ねると、娘は黙って山吹の枝を差し出した。道灌はその時は意味が解らなかったが、城に帰って後に『後拾遺集』の「七重八重花は咲けども山吹のみの(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」という歌があり、貧しさ故に蓑の一つもお貸しできませんという意味だったと知る。道灌は自分の無知を恥じて、以後いっそう歌道の勉強に身を入れたという話だ。

山吹の里の碑


都電荒川線面影橋駅



豆知識

 宿坂の途中にある金乗院は別名目白不動として知られる。江戸の五色不動(目黒、目白、目青、目赤、目黄不動)の一つだ。また、境内の墓地には槍の名手で「由比正雪の乱」の一味だった丸橋忠弥の墓がある。

目白不動金乗院
丸橋忠弥の墓

 また、南蔵院は力士の墓が多い。三遊亭圓朝の『怪談乳房榎』ゆかりの寺だそうだ。前回紹介した氷川神社はすぐ近く。

上:江戸切絵図(国会図書館蔵)
下:google map

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