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豊島氏の滅亡と伝説(2)
練馬城━━練馬区
としまえんの跡地に練馬城址公園がオープンしたというので、久しぶりに西武線の豊島園駅に降り立った。来月になるとハリーポッターのテーマパークがオープンするので、そうなると混雑が予想されるからだ。
駅のホームはハリーポッターの世界観を表現したのか、えんじ色に塗り替えられて、どことなくクラシックな印象だ。駅名はあくまでも「豊島園」だが。
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しかし、駅を出て驚いた。練馬城址公園はまだ一部しか解放されていなかった。しかも、城跡とは全く関係ないエリアで、肝心の部分は工事用の白い壁に覆われ、中をうかがうこともできない。
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練馬城の本丸は緑の部分
(東京都建設局のホームページから)
東京都建設局のホームページによると、練馬城本丸のあったハイドロポリス部分は11月頃にオープンするらしい。
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豊島氏が滅ぼされるきっかけとなったのは、長尾景春の乱である。この乱についてなるべく簡単に説明しよう。
文明五年[1473]景春の父景信が死去し、景春が当主になった。景春の祖父(景仲)、父は山内上杉家の家宰(執事)を勤めていたので、景春は当然自分も家宰になれるだろうと思っていた。
ところが山内上杉顕定は、景春の叔父の忠景を家宰に任命した。これに憤慨した景春が乱を起こしたのは文明九年のことである。
乱が大ごとになったのは景春に与党する武士団が少なくなかったからだ。上杉顕定や長尾忠景に不満を持つ者が多かったのだ。また管領上杉氏と対立していた古河公方足利成氏も景春をバックアップしたことで、「武、相、上」三国の武士二、三千余が景春に味方した。
太田道灌は関東管領扇谷上杉定政の家宰である。
室町幕府の東国の支配は鎌倉公方が任されていた。関東管領は鎌倉公方の補佐役で、代々上杉家が担っていた。(この鎌倉公方と管領上杉家の仲が悪くて戦になり、この時代に公方は下総国古河に移って鎌倉府は事実上消滅していた)
家宰は歴史研究上の用語らしいが、家臣の筆頭で主人に代わって目下の家臣に命令できるなど、大きな力を持っていた。
景春は道灌と親戚だったこともあって同心を持ち掛けた。道灌はそれを断ったが、顕定、忠景との仲裁にはいった。しかし、顕定らはまったく歩み寄らず、ついに景春は我慢の限界がきて兵を挙げた。
道灌は景春とは敵対する立場になった。
景春側に付いた豊島一族。宗家の泰経の弟豊島泰明が練馬城主である。練馬城は石神井川の南の小高い丘の上にある。別名を矢の山城という。
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「豊島氏と城郭」井禮正雄著を基に
windows map,Zenrin上に土偶子が作図
上図の①から撮った写真がこれ。↓
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左に古城(もちろんとしまえんの)がチラッと見える
そしてこちらが平成元年[1989]6月に撮影した同じ場所の写真。
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この時私は事務所を訪ね、練馬城について尋ねたのだった。突然のことにも関わらず、その場にいた一番年配と見える男性が、過去の発掘調査の資料などを見せてくれ、また一緒にこの写真の場所に行って説明してくれた。
それによると、花壇の手前は右手の石神井川から続く沼地だった。花壇の向こうの植え込みの辺りに土囲があった。その奥、ウォータースライダー・ハイドロポリスの辺りが城の本丸である。
ご覧のように、既に城跡は破壊されている。またプールが開いていない時期は入ることもできなかった。ハイドロポリスが作られる前は花壇だったと思う。かつて土囲の東北の隅には城の鎮守の祠があったらしい。
石神井川の対岸から見たところ。(②)↓
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城は一番高い場所にあった
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お仕事中にもかかわらず
御親切に説明くださった
改めて感謝申し上げます
園の南側を歩いてみる。途中二箇所が谷になっている。城はこの二つの谷に挟まれた台地の上である。この谷は中世の頃は沼地であり、自然の堀の役割をしていた。
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この坂は城の西側の谷に当たる
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左がとしまえん跡、右が区立向山庭園
この坂はどんぶり坂という名で、①と同じ谷につながっている
文明九年[1477]4月13日、太田道灌の軍勢は江戸城を出て泰明の練馬城に矢を放ち、城下に火を放って引き揚げた。泰明は太田勢を追って出陣。兄の泰経も石神井城を出た。
太田勢も馬を引き返し、両者は江古田原(中野区)で衝突。この合戦で泰明は戦死する。練馬城は主を無くし、役割を終えた。
ここからは練馬城に伝わる伝説。
豊島氏の末期、練馬城の城主は豊島景村といった。景村は泰経の弟である。江古田原の戦いに敗れ、景村が戦死した後、景村の姫は世をはかなんで父の後を追い、石神井川に入水して若い命を絶ったという。姫の入水した場所は姫が淵という。
姫が淵というのがどこの場所を指すのか分からないが、城の背後の川の蛇行したところかもしれない。
豊島景村は実在したが、南北朝時代の人で時代が合わない。景村は練馬城を築城した人かもしれない。
また、姫の入水伝説は石神井城にもある。こちらの話については石神井城の回で詳しく触れることにしよう。