四谷怪談の現場を歩く(16)
南北の墓とスカイツリー
狂言の終わり
蛇山の現状を見た後、浅草通を押上に向かって歩く。途中業平橋を渡る。目の前にはスカイツリー。ここまでくるとかなり近く感じるが、スカイツリーは巨大なので、思ったよりも距離がある。
押上駅の近く春慶寺はある。ここに、四世鶴屋南北は葬られた。春慶寺はビルになっていて、墓は浅草通に面しているので歩道からお参りすることができる。
墓石は中央のガラスケースに入っているのが元々のもの。関東大震災や戦災でかなり損傷し、文字も摩滅している。正面には南無妙法蓮華経の題目。側面には墓誌名が彫られているらしいがよくわからない。
手前の墓石は昭和五十八年に建てられた。文字は劇作家の宇野信夫による。墓の上には鶴屋南北の名入りの提灯。墓の周りは寄進した芝居関係者の名入りの石柱が並んでいる。以前ここに来た時も今回も、この墓に目を止める人はいなかった。こんな大きな通りに面してかなり目立つと思うのだが、興味のない人の目には入ってこないのだろうか。
因みに春慶寺は池波正太郎の『鬼平犯科帳』の舞台にもなったそうだ。
振り返るとスカイツリーが目の前にそびえていた。南北も目の前の巨塔を見て泉下であきれているかもしれない。「こいつはとんでもねぇ、櫓じゃねぇか」
春慶寺のビルの二軒隣にある普賢菩薩を祀るビル。ここも春慶寺の一部で、歩道から参拝できる。白い像が猫のように寝そべっている。
当初は鶴屋南北の墓で終わりにするつもりだったのだが、『四谷怪談』について資料を調べていくうちに、もう一か所「四ツ谷」があることを知ってしまった。しかも、春慶寺から遠くないところである。
それは曳舟川に沿うあたりの地域を指す。曳舟川通りはスカイツリーの北側にある。
曳舟川通りは文字通り昔は川があった。通りの中央を流れていたが、現在は暗渠になっている。昭和二十年代の曳舟川の写真を見ると、水面から岸までの高さは人の背丈よりも低く、大雨が降ればすぐにも溢れそうである。曳舟川は人口の運河で、船に物資を積んで人が岸から綱で曳いたことから名付けられた。
ただ、「四ツ谷」は、なぜそう呼ばれたのかは分かっていない。別に谷でもなく、江戸の絵図では周りは田畑なので、家が四軒しかない寂しい所(四家)とか、そういうことだろうか。これは雑司ヶ谷の四ツ家も同様だが。
『いろは仮名四谷怪談』は天保五年[1834]に出版された絵入根本(挿絵が入った読む脚本。主に京阪で作られた)。その中で、三角屋敷で宅悦が直助に、本所は四ツ谷の近所に住んでいると言うくだりがあるという。
天保五年は南北の死後のことなので、この改変は別人の手になる物だろう。
それにしても、南北の墓の近所に四ツ谷があるとは話が出来過ぎだ。蛇山にも近い。もし、ここが民谷家のあった四ツ谷だとすると、この物語は浅草を除いてほとんど隅田川の東側で済んでしまう。戸板は大横川に遺棄されて、運河を上り下りしながら隠亡堀へ流れ着いたのだろうか。それはそれで奇怪な話である。
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