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ドラキュラ ノート(2)

 レ・ファニュの『カーミラ』との出会いが、ブラム・ストーカーに吸血鬼小説を書かせる動機になった。
 ストーカーの創作ノートによると、吸血鬼は最初から男と決めていたようだ。ノートには登場人物の名前が列挙されている。ドクター・シュワード、ルーシー・ウェステンラ、ウィルヘルミナ・マリー、ジョナサン・ハーカーなど、小説に登場する名前もあれば、見慣れない名前もある。
 そのノートの真ん中あたりに、吸血鬼の名前がある。

Count Wampry

 吸血鬼ヴァンプリー伯爵。あまりにストレートでネタバレもいいところ。ストーカーも線を引いて消しており、その横にこう書いた。

Dracula

 そしてその名の響きを確かめるように、ノートの上の方に名前を三度書いている。

 Dracula      Dracula  Count Dracula

ストーカーの創作ノート
(フィラデルフィア、ロウゼンバック・ミュージアム・アンド・ライブラリー所蔵)

ドラキュラとの出会い

 1890年3月8日のストーカーの創作ノートによると、この日彼は悪夢から目覚めたとき、昨年からずっと悩んでいた新しい作品のインスピレーションが閃いたのを感じたそうだ。
 とにかく早く忘れないうちに書き留めなければ。

 …若者が外に出て娘たちに出会い、その中の一人が彼の唇ではなく喉にキスをしようとする。老伯爵は烈火のごとく怒り、その邪魔をして…

 これが『ドラキュラ』に関する、初めて具体的シーンを書いたメモになった。
 この内容は、ジョナサン・ハーカーがドラキュラ城で眠っているとき、三人の女の吸血鬼に襲われそうになる場面に活かされた。

ヴァームベーリ・アールミン

 1890年4月30日。ライシアム劇場にて『死せる心臓』の最終公演が終わった後、ストーカーはヘンリー・アーヴィングから晩餐に誘われた。その席で一人の初老の学者と出会った。高名なブダペスト大学の東洋学者にしてダブリンのトリニティー・カレッジ(ストーカーの出身校)の名誉教授、ヴァームベーリ・アールミン教授だった。

ヴァームベーリ・アールミン
(1832~1913)
なお、ハンガリー人の名前は日本と同じく、姓氏が先で名前があとにくる

 若い頃にイスラム教徒の巡礼に化けて中央アジアを放浪した経験を持ち、東欧や中央アジアの言語、歴史、文化に精通した博識の教授と、ストーカーはいかなる話をしたのか。その会談の内容は残されていない。

 かつて、ストーカーの研究者は、ワラキアのヴラド・ツェペシュ(ドラキュラ)のことを、この時ヴァームベーリ教授から教えられたとしていたが、それは間違いらしい。

 二年後、再び教授と再会した時、ストーカーは自分で調べたヴラド公のことについて直接詳しく教示を受けることができたという。

 このことに感謝の意を表すために、ストーカーは『ドラキュラ』の中に、ヴァン・ヘルシング教授の友人としてアルミニウス教授という名で出している。

わしはブタペスト大学の友人のアルミニュース教授に、いろいろあいつの文献を調べてもらったが、あいつはちゃんと文献に出ておる。(略)やつはたしかにトルコ軍に英名をとどろかせたドラキュラ将軍だったのだね。(略)アルミニュース君にいわせると、ドラキュラ家はその子孫に、往々当時の人から悪魔としてかつがれた者が幾人か出たけれども、とにかくれっきとした大貴族だそうだ。(平井呈一 訳)

 アルミニウス(アルミニュース)とはアールミンのラテン語読みである。

 そしてヴァン・ヘルシング(Van Helsing)というキャラクターそのものが、ヴァームベリ・アールミン(Vámbéry Ármin)をモデルにしているのだという。
 Árminのドイツ語読みはHermannである。つまりアナグラムだ。
 バンベルゲル・ヘルマン→→→ヴァン・ヘルシング

ウィットビー(其一)

 それではストーカーはどこでドラキュラを知ったのだろうか。

 1890年8月。ストーカーは夫人や息子と共に休暇をウィットビーという海辺の地で過ごしていた。

 このウィットビーはドラキュラ伯爵を乗せたデメテル号が漂着した場所。そして、ルーシー・ウェステンラが最初に伯爵の毒牙にかかる場所として登場する。

 ストーカーはウィットビーの図書館で、『ワラキアとモルダビア公国に関する報告』と題する、一冊の赤い表紙の本を見つけるのだ。著者ウィリアム・ウィルキンソンはブカレスト駐在の英国領事で、内容はワラキアとモルダビア(モルドヴァ。現在のルーマニア)の歴史の紹介である。

 その中に、ドラキュラの名をストーカーは発見した。

 ワラキア公ヴラド三世については、「ドラキュラとゼノフォービア」で、簡単に紹介した。↓

 ドラキュラとは「ドラゴンの息子」または「悪魔の息子」という意味である。これはヴラド三世の父のヴラド二世が神聖ローマ皇帝ジギスムントから竜の騎士に叙任されたことに由来する。(1431年2月)これにより、ヴラド二世はヴラド・ドラクル(竜)と名乗るのである。
 そしてドラクルの息子は、ドラクレア(ドラキュラは英語読み)と名乗る。実際、そのようにサインした文書も残っている。
 もともとは悪魔とは関係なかったのだが、サタンは竜(蛇)の姿で表されることがあるので、ドラキュラ=悪魔の息子となってしまった。


 ヴラド三世の悪名は主にハンガリーの宣伝による影響が大きい。ワラキアは小国でありながら、オスマン帝国に対し善戦していたが、ハンガリーは後れを取っていた。妬んだハンガリーのマーチャーシュ王は亡命してきたヴラドを捕らえて幽閉し、その間彼の残虐行為を盛んにパンフレットにしてまき散らした。当時普及し始めていた印刷機がプロパガンダに大いに利用された。

串刺し刑に処した死体の前で食事をするヴラド・ティペシュ
wikipediaより
ティペシュとは串刺し公のこと
進軍するオスマン軍に恐怖を与えるため、捕虜の串刺し遺体を街道筋に並べた
さしものオスマン軍も色を失って退却したという
この様な残酷場面を描いたパンフレットはハンガリーやドイツで作られた

 そしてハンガリー王は彼がトルコ人に恐れられていることを大いに利用した。交渉に来たトルコ使節団の前にヴラドを登場させたのだ。
 彼のひとにらみで使節団は休戦条約に応じてしまった。


 ストーカーはこれらの情報をウィットビーの図書館とヴァームベリ教授から仕入れたものとみられる。

 ヴラドという名は小説の中には出てこない。串刺し公の名もである。また、ワラキアという国名も出てこない。
 ドラキュラの城はワラキアよりも北部のカルパチア山脈を越えたトランシルヴァニアに設定されている。作中にビストリッツァの街やボルゴ峠という実在する場所は出てくるが、そこはヴラド三世とは無関係である。(ただし、ヴラド三世が生まれた場所はトランシルヴァニアに含まれる)

 歴史に取材はしているが、あくまでキャラクターにリアリズムを与えるために利用している。
 ただ、ドラキュラがジョナサン・ハーカーに語るドラキュラ家の歴史は、史実に基づいている部分が多い。

 なお、伯爵というのはストーカーの創作上のことで、実際は公爵である。なぜ、伯爵にしたのか。先行する吸血鬼小説に出てくるマースデン伯爵やカルンシュタイン伯爵夫人に敬意を表したのかもしれない。
 もしくは「デューク・ドラキュラ」より「カウント・ドラキュラ」の方が声に出したときのリズム感が良いと思ったのかもしれない。

 


 


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