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【ぶら近所】上田辰之助旧居跡

 吉祥寺駅からまっすぐ北に歩いて、練馬区との境に近づいた場所、住宅街の一角に黒い石碑がある。(東京都武蔵野市吉祥寺東2-16-1)
 上部には丸いプレートが二つ、男女の顔のレリーフが並んでいる。その下の碑文はすべて細かい英語の文章がびっしりと刻まれている。
 石碑の前にはベンチがあるが、座っている人を見かけたことはない。

 この石碑は経済学者上田辰之助を記念したもので、ここは上田邸の跡なのだ。

 石碑のレリーフは上田辰之助とその奥さんのアヤノ夫人である。

 石碑の後ろには日本語の文章が刻まれている。

本邸一二二三・九六平方米は、故日本学士院会員一橋大学名誉教授経済学博士上田辰之助先生(一八九二・二・二━一九五六・一〇・一三)と、アヤノ夫人(一九〇四・六・一四━一九四七・一・五)お二方生涯終焉の地である。
先生は、日本橋小網町の回漕問屋に生まれ、東京府立一中を経て一橋を卒え米欧に学ぶ。その学識は和漢洋に通じ、円熟達意の名文をもって世に問うた珠玉の論稿は、周ねく知られるところである。就中、畢生の大作とせられるは、一九三〇年この地を卜して建設せる居宅多瑪書屋(聖トマス館漢訳)━一九三・二五平方米━の書斎において、彫心鏤骨せられし学位論文「社会職分を基調とするトマス・アクィナスの経済思想に関する研究」(一九三五年二月東大経済学部教授会審査)にして、本業績については、ドウ(人冠の下に工。同)年ローマ法王庁より感謝状を贈られるに至った。
先生は終戦後、夫人(栃木県加藤家出)に先立たれ、後嗣なく蕭条寂莫の間を過ごすこと十年。この間絶えず一橋ゼミナール関係者一人一人の上に想いを馳せられ、研鑽中といえども訪れる教え子の何人をも拒まず、招き入れては談論風発、ユーモアとウィットを交えつつ日本と世界を論じ、訪客を啓発せられたことは、門下生一同終生忘れ得ざるところであり、夫人ご存命中の多瑪書屋における毎週ゼミナールの回想とともに、幾歳月を終わるも青春哀歓の一齣として一同の胸に去来する。
いま、星霜四十七年にして国有財産に帰せし多瑪書屋は、解体の止むなきに遭い、「武蔵野上田外国人教師宿舎」として甦生の機に際会した。ここに門下生一同、恩師の業績を偲びご夫妻の冥福を祈りつつ、その邸址の由来を後世に伝えむと欲し石に刻む。
希くは、この地を訪れる内外の諸賢━晨光会一同の微衷を諒とせられむことを!
  一九七八年早春
           一橋大学上田辰之助ゼミナール晨光会

石碑裏面

 上田辰之助は一橋大学を出た後ペンシルベニア大学に留学。ロンドン大学でクェーカー教に入信した。また、フランスにも留学した。一橋大学ほか、国際基督教大学、明治学院大学などでも教鞭をとった。トマス・アクイナス思想の研究でも知られている。
 一橋大学の上田ゼミナールの出身者としては、故大平正芳元総理大臣などがいる。

 石碑の後ろに二階建てのアパートが二棟建っている。武蔵野上田外国人教師宿舎である。ここが上田辰之助の旧宅跡だ。A棟、B棟のアパートはかなり敷地に余裕があり、これが一軒の家だったのだから、かなりのお屋敷だ。(昔は周辺の住宅も広い庭のある家ばかりだった。筆者の母はこの辺りを「昔は別荘地だった」と言っていた。今では相続が進むにつれて、土地が細切れになり、狭苦しい街並みに変わってしまった)


 実は筆者は小学生の時、上田邸に入ったことがある。といっても上田さんはとうにお亡くなりになっていて、別の人が住んでいた。多分家を借りていたのだと思う。筆者は同じ学校の友達数人とともに、この家の奥さんに英会話を習っていたのだ。

 どういういきさつだったのか、親が行けといったので週に一度通っていたのだが、おそらくご主人は学者か英語教師で(一度も会うことはなかったが)、この家の来歴を考えれば、一橋大学の関係者だったのかもしれない。

 とにかく広い家だった。そして、とても古く感じた。多瑪書屋などというしゃれた名前があったとは、もちろん全く知らない。全体は日本家屋だが、玄関を入ってすぐの部屋は洋室で、そこで英会話教室は行われていた。生徒はノックをして、部屋の前で英語であいさつをしてから入るのである。

 その洋室のことは、今でもかなり鮮明に覚えている。なにしろ家具調度類がすべてインド製なのだ。置物も木彫りのインド象がたくさんあった。牙は本物の象牙でできていた。ラクダの革(胃袋?)をカサにしたランプもあった。壁紙もインドの風景と唐草の模様が描かれている。
 部屋の奥はフランス窓で、白いカーテンの隙間から広い庭が見えた。
 この部屋のインテリアが上田さんの頃からのものなのか、その時の住人による改装なのかはわからない。ただ、目に入るものがみな珍しかった。

 いつもは授業が終われば帰るだけだが、たまに先生の子供と遊ぶこともあった。洋室よりも奥のほうへ行ったこともある。長くて薄暗い廊下があって、奥の部屋は和室ばかりだった。先生の子供は男の子が二人で、多分その子たちが暴れたのだろう、ふすまは穴だらけだった。

 庭で遊んだこともある。かけっこができるほど広い庭だった。忙しいからか、それとも無頓着なのか、あまり手入れをされていない庭で、芝生は長く伸び放題で、奥のほうに池があった。そこにガマガエルがたくさんの卵を産む。オタマジャクシから足が生えて小さなカエルになったやつが、芝生の上を大量に跳ね回っていた。不思議なことに、小ガエルたちはすぐにどこかに姿を消してしまうのだった。

 中学に進学したころに、その家に通うのをやめてしまった。数年後、先生の一家は仕事でインドに移住した。一度だけインドから絵ハガキをいただいたことがある。

 先生が引っ越した後、家はどうなったのだろう。誰かほかの人が借りたのか。それとも空き家のままだったのか。かなり古い家だったし、碑文に「国有財産に帰せし」とあるのは、相続税のために国に物納されたということなのか。

 外国人教師のアパートになって、当初は白人が主に住んでいたように思う。近年はアジア系の家族を多く見かける。二年前にロシアのウクライナ侵攻が始まった時には、門の外にウクライナの国旗が掲げられていた。

 あの家の思い出も遠いものとなった。

 

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