六歌仙のなぞ(6)
◆六人の間に関係はあるか◆
同じ時期に生きたとみられる六歌仙であるが、彼らの間に接点はあったのだろうか。
まず、小野小町が残した歌から、小町、遍照、康秀は面識もあり、交際も親密であったようだ。
他の三人についてはどうか。それを検討するには、ある人物を出さねばならない。
【最初のキーパーソンは惟喬親王】
惟喬親王は文徳天皇の第一子である。母は紀名虎の娘紀静子。長子であるにもかかわらず、惟喬親王は天皇になれなかった。それはひとえに藤原氏の血を引いていなかったことによる。
惟喬親王、惟條親王(同母)、惟彦親王(母滋野奥子)の三人の兄たちを差し置いて皇太子になったのは惟仁親王である。母は藤原良房の娘明子。わずか生後八か月にして、皇太子になったのだ。惟仁親王は後の清和天皇である。
そのことについて、『日本三代実録(以下、三代実録)』にこうある。惟仁親王が皇太子になったとき、「大枝を超えて、走り超えて、躍り上がり超えて、我や護る田にや、捜りあさり食む支岐や、雄々い支岐や」という童謡がはやった。この「大枝」というのは「大兄」のことで、つまり、上の兄を差し置いて、惟仁親王が皇太子に選ばれたことを歌ったものである。いかに、良房の強引なやり方に、憤りを感じていた人が多かったかがわかる。
惟喬親王は母親(静子)が紀氏なので、彼の取り巻きもやはり紀氏が多かった。前述したが、紀有常、紀有朋、紀友則などである。紀友則は『古今集』の撰者である。紀有常は紀静子の兄にあたり、また娘は在原業平の妻だった。業平、紀有常、惟喬親王の親交は『古今集』にも見える。
惟喬親王の共に、狩りにまかれける時に、天の川といふ所の川のほ
とりにおりゐて、酒など飲みつけるついでに、親王の言ひけらく、
「狩して天の河原にいたる、と言ふ心をよみて杯はさせ」と言ひけ
れば、よめる。
在原業平朝臣「狩り暮らし 織女に宿からむ 天の河原に我は来にけり」
親王、この歌を返す返すよみつつ、返しえずなりければ、共に侍り
てよめる。
紀 有 常
「一年に ひとたび来ます君待てば 宿かす人もあらじと思ふ」
惟喬親王は比叡山の麓の小野という所に隠棲したので、小野宮とも称した。後に出家して素覚を号したが、それからはあまり人前に出ず、ひっそりわび暮らしたという。そんな寂しい余生をおくった法親王を、業平は雪を踏み分けて訪ねている。
惟喬親王のもとにまかり通ひけるを、頭おろして小野といふ所に
侍りけるに、正月に訪れはむとてまかりけるに、比叡の山の麓なれ
ば、雪いと深かりけり。しひてかの室にまかりて拝みけるに、つれ
づれとてしていともの悲しくて、帰りまうで来てよみておくりけ
る。
業 平 朝 臣
「忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪ふみわけて君を見むとは」
また、親王自身も小野宮の生活を次のように詠んでいる。
惟 喬 親 王
「白雲の たえずたなびく峰にだに 住めば住みぬる世にこそありなれ」
惟喬親王は僧正遍照にも歌を贈っている。
「桜花 散らば散らなむ 散らずとて ふるさと人の来て見なくに」
桜の花よ、散りたければ散るがいい。ふるさとの人(昔馴染み)は見に来てはくれないのだから。つまり、遍照に、早く桜を見にいらっしゃいよ、という誘いの歌であろう。
ところで、惟喬親王が住んだ小野宮は小野という土地にあることは書いた。小野は小野氏の領地である。現在、崇道神社(祭神早良親王)があるあたりは、小野氏の墓所であり小野神社もある。また、近くにある三宅八幡宮も小野氏が建てた神社だ。その辺りから大原にかけて、かなり広い範囲だが、そこが小野と呼ばれていたらしい。小野小町と惟喬親王のかかわりは明らかではないが、親王が小野の土地に庵を結んだことは重要なポイントといえよう。
これまでに分かったことをまとめると、次のようになる。(小町は小野ということで小野宮とつながる。)
文屋康秀が仁明天皇の宮廷の文人サロンの一員で、蔵人頭宗貞(遍照)と顔見知りだったろうことは前にも書いた。ということは、康秀と遍照もつなげることができる。これで、六歌仙のうち四人に関係があり、またそれは紀氏とも深い関係があることもわかった。
◆文徳天皇の皇位継承争い◆
文徳天皇の皇太子は、前述のとおり惟仁親王がなった。しかし、実は文徳天皇自身は惟喬親王に後を継がせたかったようである。既に惟仁親王が皇太子に立っているにも関わらず、それを廃して惟喬に継がせようという謀が、ひそかに進められていた。もちろん、太政大臣藤原良房がそれを許すはずがなかった。
危機は天安二年に訪れた。以下は、惟喬親王と惟仁親王の皇位争いを物語にしたものである。大江匡房の『江談抄』の次のような話がある。(原文は漢文)
天安皇帝、宝位を惟喬親王に譲るの志しあり。太政大臣、政を総摂して第一の臣たれば、憚り思うことにより出さざるの間に漸く数月を経たり。或は神祇に祈誓し、また秘法を仏力に修め、真済僧正は小野親王(惟喬)のために祈り、真雅僧都が東宮(惟仁)の護持僧となりて、各祈念をこらして、互いに肝胆を相砕かしむ。
また『平家物語』では、惟喬親王の祈願を真済僧正(空海の弟子。東寺長者)が受けたのに対し、惟仁親王の方は延暦寺の恵亮和尚が行ったという。
しかし、なかなか決着がつかないうちに文徳天皇がお隠れになったので、公卿たちは相談して、両派から代表を出して競馬と相撲を催し、それで決着をつけようという話になった。
競馬の勝負は、十番のうち初めの四番までを惟喬親王が勝ち、のちの六番は惟仁親王が勝った。次に、相撲の勝負では、惟仁親王の代表選手は右兵衛督名虎という六十人力の大男。対して、惟仁親王側は少将の能雄という小男が選ばれた。能雄は見るからに弱そうで、とても名虎に太刀打ちできそうにない。勝負はやはり、名虎が優勢に見えた。
そこで、惟仁親王の母染殿后は恵亮に使者を送り、恵亮はすぐに大威徳法を修し、自らの頭を独鈷で突いてその汁を乳に混ぜて護摩をたいた。これが効いたか、能雄は相撲に勝って、惟仁親王は天皇の位につくことができたのである。
これらの話は、もちろんフィクションである。名虎は紀名虎で、能雄は伴善男をモデルにしているのは明らかだが、名虎は承和四年[847]に既に死んでいるので、相撲を取れるわけはない。また、立坊争いじたい史実には残っていないので、このような物語は根拠がないとみる向きもある。しかし、そうなのだろうか。
文徳天皇が惟喬親王にとりわけ目をかけていたことの証拠は、いくつかあるのである。例えば天安元年[857]、惟喬親王が元服する八か月前に、帯剣を許す勅を出していること。天安二年に、紀静子に正五位下を叙していること。また、同年、惟喬親王を太宰権帥に任じていることなどである。
ところが、天安二年八月、文徳天皇が急死した後、事態は一変する。例えば、『江談抄』の中で、惟喬親王のために祈禱したとされる真済僧正は、にわかに隠居してしまうのである。そのことを『三代実録』はこう記す。「天安二年八月。文徳天皇寝病。真済僧正看病於冷然院。大漸之夕。時論嗷々。真済失志隠居」すなわち、文徳天皇が病に倒れ、その病気平癒の祈祷を真済僧正が行ったが、天皇はそのまま不帰の人となった。真済は失意の内に隠居した、というものである。
また、紀有常も斉衡二年[855]から、貞観十五年[873]まで、十八年も昇進していない。貞観十五年は、藤原良房が死んだ翌年である。
なお、文徳天皇の死についても、あまりにも唐突な死だったため、暗殺されたのではないかという説もある。病に倒れてから、わずか四日後に崩御しているのである。これは、元服したばかりの惟喬親王に執心する文徳天皇に、危機感を抱いた良房の陰謀ではないかというのだ。
天安二年の正月から八月までの間に、良房による惟喬派(紀氏)の一斉排除がなされた可能性がある。紀夏井が正月に弁官の任を解かれ、讃岐守として下向し、紀有常が二月五日に肥後権守に任ぜられたが、これを左遷とみることはできないだろうか。
文徳天皇が崩御した日、左右近衛少将が各将監将曹を率いて東宮御所を護り、山城国司に命じて、宇治、与度(淀)、山崎など、東南西三方の通路の要衝を警護させ、諸衛を率いて左右兵庫、馬寮を監護させた。また翌日、皇太子と皇太夫人を東宮に迎えた。
この物々しい様子の理由を、「欲令擁護幼冲太子也(幼冲の太子を擁護せしめんためなり)」と記しているが、「第二の承和の変」なりかねない、非常に緊迫した情勢だったとも解することができるのである。
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