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六歌仙のなぞ(12)

◆応天門の変と天台座主◆

【文徳天皇崩御の波紋】
 仁寿三年[853]は円珍が唐に渡った年であり、近江国甲賀郡に松尾神社が建立された年であった。
 それから三年後の斉衡三年[856]、真済は僧正位に就く。その時真済は、師の空海が僧正にならなかったのを悲しみ、朝廷に奏上して、その結果天安元年[857]、空海に大僧正位が追贈されることになった。ここまで真済は着実に栄進したことになる。このような優遇は、真済が文徳天皇に信頼されたからであり、天皇の惟喬親王を皇太子にしたいという考えも、かなり前から持っていたらしいと推測されるのである。

 同じ年に、右大臣藤原良房はしきりに退職願を出している。理由は老病であるという。この願いは聞き入れられなかった。
 それどころか、斉衡四年[857]、良房は突然太政大臣に任命された。左大臣源信を飛び越えての昇進である。退職願は太政大臣就任を目の前にしたポーズに過ぎなかったのだ。
 天安二年[858]、良房は摂政太政大臣に就任する。すでに成人していた文徳天皇に、摂政など不要と思われるが、もはや良房の権力は天皇さえ凌ぐほどにふくらんでいたのだろう。文徳天皇の皇太子は、既に惟仁親王に決まっていた。わずか生後八か月で立坊されたのである。第二章でも書いたように、良房の強引なやり方は、当時童謡にも歌われたほどで、いかに周囲の反感が大きかったかがわかる。しかし、誰もそれを止められなかったのも事実である。

 真済が惟喬親王の立坊のために祈祷したのは、まさに良房が摂政に就いた天安二年のことだ。一月十六日、惟喬親王は太宰権帥に任じられているが、これは良房が適当な役職を惟喬親王に与えて、周りの悪感情を和らげるために取った作戦だろうか。その頃、文徳天皇は、ひそかに惟仁親王を廃嫡して、惟喬親王を皇太子にしようとしていた。真済が祈祷を始めたのも、文徳天皇の要請によるものではないか。
 これに対し危機を覚えたのは、良房や良相ら藤原北家だけではなかった。左大臣源信は直ちに昇殿し、天皇を諌止した。このため、承和の変のような大事件に発展することはなかったという。
 『平家物語』によると、真済に対抗して惟仁親王のために祈祷したのが円仁の門弟恵亮だった。『叡岳要記』には、恵亮は清和天皇が誕生してから、即位の後に至るまで、祈祷守護を勤めたという。このことは、恵亮の師の円仁も惟仁親王の側についていたことを物語る。(佐伯有清『人物叢書・円仁』吉川弘文館)
 しかし、良房はこれで済ませるほど甘くはなかった。六月二十二日、円珍が唐から帰国して大宰府の鴻臚館に入った。その二か月後の八月二十七日、文徳天皇は急逝した。発病して四日。三十二歳という若さだった。円珍はこのわずか二週間前に、天皇の詔勅を受け取ったばかりで、まさに都に帰ろうとしていた矢先の出来事だった。この不可解な死を暗殺とみる説もある。

 正月から天皇が崩御する八月の間に、惟喬派の紀氏の一斉排除が行われた可能性がある。惟喬親王の太宰権帥もそれだが、他にも紀夏井が弁官の任を解かれて讃岐守として下向しているし、二月には紀有常が肥後権守に任命されている。これは左遷ではないのか。
 惟仁親王はただちに東五条の宮から東宮に遷御したが、そのものものしい様子は第二章に書いたとおりである。この異常事態に『三代実録』は、「凡そ天文風雲の気色、異なること有り」と記す。文徳天皇の霊を鎮めるため、広隆寺で四十九日間の転経念仏が行われ、文徳天皇陵に鎮謝使が派遣されているのは、「文徳天皇の崩御が異常であったことを示している(佐伯有清『人物叢書・円珍』)」のである。
 良房自身も、多少の良心の呵責があったようで、円仁に「近頃今上陛下(清和天皇)のことで、しきりに悪夢を見る。心が休まらないので、弟子たちと共に、陛下のために寿命経を奏読してほしい。」と、頼んでいる。文徳天皇の怨霊が、清和天皇に害をなすことを恐れたのである。
 清和天皇の即位は十一月七日のことであった。

【鬼になった真済】
 惟喬親王は九月二十三日、太宰帥に就任した。事実上の左遷であることは明らかだろう。住まいを都の郊外の水無瀬宮に移し、更に四年後に小野宮に移ったのも、世をはかなんでの隠居暮らしのためと思う。
 その年のうちに『三代実録』によれば、真済は失意のうちに隠棲したという。大和の柿本山影現寺の創建と伝えられる年である。
 ところで、真済が失意したのは惟喬親王が天皇になれなかったからではなかった。文徳天皇が病に倒れ、その祈祷にあたったが効果が無く、天皇は急逝、そのため志を失って隠居したのだという。『三代実録』に「時論嗷々ごうごう」とあり、世間からの非難を浴びての隠居だった。大方、良房一派になじられたのだろう。
 二年後の貞観二年[860]二月に、真済は没する。六十歳だった。

 ところで、真済に関する奇妙な伝説がある。真済は死後、鬼になった。または、天狗になって人に取り憑いたというのである。
 『今昔物語』巻二十の第十七に、こんな話がある。


 染殿后(藤原明子、清和天皇の母、良房の娘)に物の怪が取り憑いたので、大和葛城の金剛山に棲む聖人が呼び寄せられて、加持祈祷すると、狐の憑物が落ちた。父親は喜んで、聖人をしばらく后の側においておいたが、ある時偶然に后の顔を見てしまい、愛欲の情が起こってしまった。そして、たまらず后の腰に抱きついた。
 后の侍医の当麻鴨継は、この騒ぎを聞きつけて駆け付け、聖人を御帳から引きずり出して捕らえた。天皇はこれを聞いて大いに怒り、聖人を獄に入れた。
 聖人は天に向かって泣く泣く誓った。「我は死んで鬼となって、この后が生きている間に本意のとおりに后と睦みあおう」これを聞いた后の父は、驚いて聖人を元の山に返した。
 しかし、聖人は后に対する思いを断ちがたく、三宝に祈誓したけれども、現世ではその思いは遂げられないから、やはり鬼になってしまおうと、絶食して十日余りのうちに餓死した。
 そして、恐ろしい鬼と化して、后のおわす几帳の傍に立った。女房達はこれを見て、みんな気絶してしまい、床に臥してしまうしまうありさまだった。ついに、鬼は后と思いを遂げてしまった。鬼は后に日ごろの思いを告げると、后もそれに笑って応えた。女房は恐ろしくなって逃げ去ってしまった。
 しばらくして、女房が様子を見に行くと、后はいつもと少しも変わらない様子だった。しかし、少し目つきが恐ろしげで異常であった。
 このことを、天皇は嘆いた。その後、日毎に鬼が后に取り憑いて、心を失った后は、この鬼を愛しい者と思うようになっていた。宮中の人々はこれを悲しんだ。
 鬼はある人に取り憑いて、「我は必ず、鴨継の恨みを晴らそう」といった。すると、幾日かして鴨継やその息子たちが、次々と死んでしまった。天皇と父の大臣はこれを見て、僧侶を集めてこの鬼を降伏させようと祈らせた。
 三か月後、漸く后の様子も良くなった。天皇は様子を見に后の宮に行幸した。
 ところが、例の鬼がにわかに角から躍り出て、御帳の内に入った。天皇があさましいと思ってみていると、后は例のような有様になって、御帳の中に急いで入ってしまった。そして、鬼が南面に飛び出してきた。大臣公卿をはじめ、百官が見ている前で、后は御帳から出てこの鬼と寝た。天皇はなす術もなく、帰ってしまわれた。


 『古事談』では、染殿后に取り憑いた大和葛城の聖人は、紀僧正真済になっている。


 貞観一年[865]のころ、染殿后が天狗に悩まされていた。数か月の間、祈祷が行われたが、その験がなかったので、比叡山無動寺の相応和尚が召された。相応和尚はしばらく祈祷をしたが、効果が無いので比叡山に戻り、不動明王に祈請した。すると、不動明王がそっぽを向いてしまった。
 和尚は涙を流して訳を尋ねると、「昔、紀僧正が不動呪を持していたので、天狗道に堕ちたとはいえ、紀僧正を見捨てることができない。しかし、大威徳法の呪を修したなら、結縛することができるかもしれぬ。」と、不動明王は言った。相応和尚は言われたとおりに、大威徳法を修して、天狗(真済の怨霊)を降した。


 真済僧正は死んだあと天狗になったのである。
 また、『宝物集』にも同じような話がある。


 文徳天皇の時、柿本紀僧正真済という人がいた。弘法大師の弟子である。天皇は真済に仏のように帰依した。后も同様であった。
 真済はひそかに后に思いを寄せていたが、そのことはやがて世間に知られてしまった。真済は恥じて、参内しなくなってしまった。そして、嘆きの余りついに入滅してしまった。真済は紺青の色をした鬼になって、后を悩ませた。


 真済は青鬼になったのである。いずれも、染殿后との関りで語られている。真済が染殿后のために実際に祈祷を行っていたかどうかはわからない。『三代実録』では、文徳天皇の病気平癒ための祈祷に験が無かったのが失意の原因とされているのに、なぜ伝説では染殿后との話になっているのだろうか。
 染殿后が精神病に侵されていたことは、貞観七年[865]と、元慶二年[865]に記録されている。これは事実のようである。この時、真済はすでに死んでいたが、染殿后が発病したのは、真済のせいだとされたのである。真済が鬼、もしくは天狗となって、祟ったのである。
 なぜ、真済が怨霊とならねばならなかったのか。しかも、真済は出家の身だから、皇后に邪恋したとなれば、これ以上の堕落はない。このような辱めを死後に受けねばならなかった理由は何か。

 無念の内に死んでいった人が荒魂となって現れても不思議はないと当時は考えられていたようだ。怨霊こそ実は罪のない人間で、その人が謀略によって死んだ後、天変地異や病気を運ぶ疫神となって、自分を死に追いやった敵に祟りをなす。怨霊の社会的地位が高ければ高いほど、祟りの範囲は広がり、都を中心とした地域、あるいは日本中に災いをもたらすのだ。
 つまり、死後に鬼(天狗)になった真済は、藤原良房によって失脚したのであり、その娘で文徳天皇の皇后、惟仁親王(清和天皇)の母である染殿后に取り憑いたとしても、不思議なことではなかったのである。
 それにしても、それまで数多くの政敵を追い落とした藤原氏だけに、一族に恨みを持つ者も多かったはずで、それが今回、特に真済を引き合いに出しての噂だから、その出所が紀氏とゆかりの者、あるいは惟喬親王のゆかりの者である可能性は大いにあろう。

【天台修験道の開祖、相応】
 ところで、真済の怨霊を調伏したという相応和尚とは、どういう人物だろうか。出身は近江国浅井郡で、本姓櫟井氏。円仁の弟子である。貞観六年[864]あるいは七年に、比叡山無動寺を建立。延喜十八年[908]八十八歳で没した。
 また、有名な比叡山の「千日回峰行」を創始したのも相応である。これは、山岳修行者でもあった宗祖最澄の精神を受け継いで始められてものという。
 貞観八年[866]相応は亡き師円仁のために大師号を賜るよう奏請し、七月に円仁に慈覚大師の諡号が贈られた。なお、同じ七月、最澄にも伝教大師の諡号が贈られている。
 これに対して、空海に弘法大師の号が贈られたのは、五十五年後の延喜二十一年[921]十月のことだから、この頃天台宗は真言宗よりも優勢だった(佐伯有清『円仁』)らしい。
 相応は清和天皇と関わる逸話も多い。『古事談』『拾遺往生伝』には、清和天皇の歯痛や、清和天皇の女御の病を治したり、天皇の命で松尾明神を呪縛した話がある。相応は祈祷だけでなく、医術によっても人の病を治した、呪医でもあったのだ。
 松尾明神の呪縛については、後で考察することにする。

【天台座主をめぐって】
 円仁が天台座主に補任されたのは、仁寿四年[854]四月だった。その時円珍が唐にいたことは、既に述べた。円仁が入滅したのは貞観六年[864]一月十四日。前年の十月に熱病にかかり、回復しないまま没したのである。貞観五年は疫病が大流行した年で、神泉苑において、初めて御霊会が公式行事として行われたのだった。この疫病流行もまた、早良親王(崇道天皇)などの怨霊の仕業とみなされたのである。
 ちょうど同じころ、良房も病気に苦しんでいた。左大臣源信と、中納言源融、右衛門督源勤の嵯峨源氏の公達が、これを機に謀反を計画しているとの噂があった。伴善男が誣告したのだ。
 伴善男は、三年後の貞観八年にも源信を訴えている。いわゆる「応天門の変」である。これについては後で詳しく述べる。

 円仁の跡を継いで天台座主になったのは、円仁の弟子の安恵である。安恵は遍照の師でもあった。安恵は天台座主になった時、すでにかなり高齢だった。
 「応天門の変」の前年、すなわち貞観七年[865]染殿后が悩乱し、相応が祈祷して真済の怨霊(?)を退散させた。ちょうどその頃、円珍は園城寺の別当として、大友黒主と共に寺の再建中だったが、翌年の春には冷然院に壇をつくり、宝祚(皇位)安泰を祈り、染殿后の護持を勤めた。冷然院は清和天皇が皇太子時代に、母の染殿后と共に暮らしていた所であり、文徳天皇もここで崩じた。
 円珍が冷然院に壇を建てたのは勅命によるものだったが、これはもちろん摂政太政大臣藤原良房の命に他ならない。佐伯有清はこのことを、文徳天皇の怨霊鎮めのためとみている。(『円珍』)
 疫病の流行。政情不安。娘の病など、良房には不安材料がいっぱいだった。しかも、清和天皇の皇太子はいまだ決まっていない。皇太子は是非とも良房の血筋でなくてはならなかったが、良房には入内させるべき女子がいなかったのである。ここで自分の身に何か起こったら、いや、天皇の身に異変が起こっては、今までの努力が水泡に帰する。良房最大の危機である。
 円仁亡きあと、良房は円珍に期待をかけていたと思う。円珍が唐に渡る時、惜しみなく援助したのも、清和天皇の安泰を願ってのことだった。良房はひそかに安恵の後に円珍を座主にと思っていたのではないだろうか。延暦寺の後継者のことは、もちろん寺内部の問題だが、天台座主を任じるのは朝廷だった。

 「応天門の変」の一年後、貞観十年[868]四月、第四代天台座主安恵が七十四歳で没し、六月、円珍は第五代天台座主になった。円仁、安恵と続いた山門派から、円珍の寺門派に座主の地位は移行した。このことは、円珍を園城寺と結び付けた大友黒主にとっても、大いに面目躍如たるところがあったことだろう。

【応天門の変の裏側】
 「応天門の変」は不可解な事件だった。結局真犯人といて流罪になった伴善男らも、その動機についてはなんら語っていないのである。果たして、本当に伴善男が犯人だったのだろうか。事件のあらましは第二章のも述べたが、ここでもう少し詳しく追ってみたい。
 応天門は、大内裏を取り囲む城壁の南の朱雀門を入って、すぐ真正面にある朝堂院の正門である。朝堂院とその後ろの大極殿は、大内裏の政治の中心である。応天門はもともと大伴門と呼ばれていた。大伴氏がその門を護衛していたことに因む名である。その大伴氏に縁の深い応天門を、大伴氏の伴善男が放火するだろうか。
 これについては多くの研究家が疑問を持っていて、今では伴善男を犯人とみる人は少ないが、それでは一体真の犯人は誰かというと、明確な答えは出てこない。最初に疑いをかけられた源信を犯人とする説は、私の知る限り無いようだ。彼が放火しても、何の得にもならないからだ。源信は良房や善男にとって目の上のこぶだったので、濡れ衣を着せられただけだろう。

 では、犯人は良房か。確かに良房は危機に直面していた。が、良房にとって、本当に警戒しなくてはならないのは、嵯峨源氏よりも弟の良相であった。
 善男は良房、良相兄弟の両方に取り入っていたが、この時は良相に傾きかけていたと思われるのである。なぜなら、良相は娘の多美子を入内させていたのに対し、良房にはしかるべき娘がいなかった。良房はすでに六十を超えているのに、ふさわしい後継者もいなかったことなどがある。善男が源信を訴えたのも、時の権力者良房におもねる心もあったろうが、これによって信を左大臣の地位から追い落とし、良相を左大臣に、ついでに自分も右大臣に昇進するのが真の狙いだったと思う。後は良房と良相の権力交代を待てば、将来は安泰である。
 良房は、こうした良相と善男の狙いに気付いたのではないか。だからこそ、逆に善男を犯人と決めつけたのではないだろうか。

 善男が信を訴えたという話は、『伴大納言絵詞』や『宇治拾遺物語』に出てくる。この話は大分脚色されていて、その全部を信じることはできないが、信に疑いがかけられたことは、十分にあり得ることである。しかし、信が取り調べられたことは、正史『三代実録』には見えない。
 ただし、『三代実録』貞観十年閏十二月二十八日の条に、貞観八年の春、善男と良相は相談の上、左大臣信の館を包囲しようとした、とある。良房は愕然として、直ちに天皇に使いを出したが、天皇もこのことを知らなかった。天皇は参議右大弁大枝音人、左中弁藤原家宗を左大臣家に遣わして、左大臣の不安を鎮めた。左大臣も漸く打ち解けて、駿馬十二疋と従者四十名余を朝廷に献上し、武装解除に応じた。その後、左大臣は外出を控えたという。
 このことは何を意味しているのか。貞観八年春が応天門の火災の前なのか後なのかわからないが、良相と善男が信を不審に思っていたことは事実である。また、良房も、しんに取り除かなければならないのは誰なのか、見極めたことだろう。

 事件は解決せぬまま、八月三日、左京の備中権史生大宅首鷹取が、伴善男とその息子の右衛門佐中庸なかつねが応天門に火をかけたと訴える。翌日鷹取の身柄は検非違使に更迭され、厳しく取り調べられた。七日、勘解由長官南淵朝臣年名、右衛門督藤原朝臣良縄が、勘解由局において、伴善男の事情聴取を行った。伴善男はもちろん犯行を否認しただろう。十八日、文徳天皇の田邑御陵に遣使が赴き、応天門事件の報告がされた。十九日、太政大臣良房は摂政に任命された。老病を理由に辞退したが、聞き届けられなかった。もちろん、ポーズだけである。これによって、良房は事件について全権を任されたことになり、裁量は思いのままとなった。
 そして、二十九日、伴中庸は左衛門府において更迭される。同じ日、大宅鷹取の娘を殺した疑いで、生江恒山という男が拷問にかけられた。恒山は善男の家来だった。大宅鷹取は善男を放火犯人と訴えた人物だが、放火事件とは別件の殺人事件で、善男の家来が捕まったことはどういうことか。
 恒山とその共犯者伴清縄は拷問によって、善男と中庸が共謀して応天門に放火したと白状した。別件で逮捕され、拷問によって無理やり自白を強要されたのだ。つまり、はめられたのである。
 二十二日、ついに判決が下った。大納言伴善男と右衛門佐伴中庸、紀豊城、伴秋実、伴清縄の主犯五人は、斬首にするところを、罪一等を減じて流罪となった。善男は伊豆に、中庸は隠岐に、豊城は安房、秋実は壱岐、清縄は佐渡へ。また、相座して肥後守紀夏井が土佐に、下野守伴河男が能登に、伴夏影が越後に、伴冬満が常陸に、伴高吉が下総に、紀武城が日向に、伴春範が薩摩に配流された。

 驚くべきことに、刑に処せられたのは伴氏と紀氏ばかりであった。伴氏は主犯としても、紀氏にこれだけの罪人が出たのはどうしてか。
 紀豊城は善男の家来で、夏井の弟だった。夏井は肥後に下向していたが、連座の刑に服したのだった。また、他の人たちも関係はよくわからないが、おそらく河男は善男の兄弟で良相の家司。伴秋実と夏影、冬満、春範は兄弟ではないか。夏井の異母兄弟豊城と武城も兄弟だったと思われる。
 この事件で、紀氏は大打撃を被ったのだった。惟喬親王で挫折した紀氏は、この事件で完全に朝廷権力から排除されることになった。

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