「好き」を動詞的に捉えるか形容詞的に捉えるか
職場の30代の女性は、事あるごとに私を褒める。ホントに可愛い、癒されるわあ、と。半分挨拶のような感じで適当に言っているのは分かっているから、私も笑って適当に流すのだが、たまに褒められすぎる日は軽く動揺して後でボールペンなんかを落としてしまう。
髪型の些細な変化にも気づいてくれるからついに私は、美容室に行った後、その人がどう反応するかを一番に想像するようになってしまった。だけどそれって普通恋愛的に好きな人に対してはたらくはずの心の作用。そこに気づいてから、もやもやはしていた。
そしてその薄っすらとした靄が水蒸気を集めてもくもくとした雲になる出来事があった。大気の状態が急変したのは、先週のこと。とある面接を目前に控えた私は、自己PRで何を言えばいいのかわからないのだという相談をその上司にしていた。すると、彼女は話を聞きながら急にスマホをいじり始めた。そして、ほら、と差し出されたその画面には、私の長所が沢山箇条書きされていた。
年末の激務を乗り越えた日、えらい!と軽くハグされてしまったことも。
2回。
恋人、友達、家族、親戚、職場の同期、先輩、後輩、先生、知り合い、お客さん、どんな関係においても、普通に、人として、その関係上において、好きだという気持ちは当たり前のようにそこらへんに転がっている。
日本語の「好きだ」は形容動詞だから、「好き」という状態が存在しているという意味で、見逃されやすい。好きですと伝えても、付き合ってくださいと言わない限り、ああそうですかで終わる可能性もあるということだ。
対して英語の‟Like”は動詞だ。アクションを連想させる。主体的に、何かが起こる。文の要。何らかの結末がある。好くという行為に対して相手がどう反応するかが大事になってくる。
私は、一回り年上で同性で彼氏と婚約している彼女のことが、動詞的に好きなのだろうか。
この人いい人だよなあという感覚は、恋愛的にこの人イイなという感覚に似ている。似ているというか、多分ほぼ同じ。
気になる人という表現と、好きな人という表現もまた然り。気になっているならそれはもう好きってことで、好きだから気になっているのに違いはないのだけれど、好き度に違いがあるという事だろう。胸を張って好きという程でもない時にうってつけの表現。
親子ほど離れた年の差カップルや同性カップルなど、多様性が認められ始めた世界で、今までの常識が常識でなくなって、見つめなおす機会が増えると、結局、一言でいえる関係なんてないのだと、改めて思う。
恋愛ドラマの相関図には、「次男→」とか「従妹→」とかに交じって「好き→」とか「好き(?)→」とかいうのがある。付き合っているわけではなくとも、この人があの人を好き、という事実があれば、それは、関係性を表す言葉となりうる。たとえ相手がなんとも思っていなかったとしても。
動詞的に考えよう。この人があの人を産んだ、という動詞があれば、関係に親子という名前がつくのだとしたら、片想いの関係にもれっきとした名前を付けることができる。
どんな関係性で出会っても、その人とできるだけいい関係を築いて生きていくことに集中して、付き合うってどういう意味かわかっていなかった小学生の頃のように、人を人としてみて、とりあえず幸せでいようかな。私は、テスト解き終わったら寝とくタイプだったから。見直しは、検算は、吟味は、推敲は、苦手なんだ。