
【短編】ながら運転
主な登場人物
茂上治夫(36歳)ホスト
朋野明美(27歳)店の客
山道を走り続ける車内には緊張感が漂っていた。窓の外は深い緑に覆われ、時折見える崖の影が不気味に揺れる。運転席の茂上治夫は、ハンドルを握る手に力を込め、視線を前方に向けていた。その隣に座る朋野明美は、彼の横顔をじっと見つめていたが、言葉は一切交わされなかった。彼らの間には、言葉以上の隔たりが生じているように感じられた。時計を見ると、0時44分44秒を示している。この時間はなにかを意味しているのか?七曲りの山道は視界も悪く危険な状況が続いていた。苛立った茂上は缶ビールを開け、短くなったタバコを車外へ投げ捨てた。助手席の明美は飲酒運転を指摘したが、茂上は全く反省の色を見せず、明美の心配を一蹴する。その態度は彼らの関係をさらに暗い迷路へと導いていった。明美は内心怒りを募らせていたが、目を閉じ、車の揺れに合わせて静かな呼吸を保っていた。
『ドンッ』
「なっ! なんだ?」
車が大きく揺れた後、急停車した。
茂上は車から降り、何が起こったのかを確かめようとした。不安と混乱の中、慌てて車を降りると、前輪が四角い石に乗り上げているのに気づいた。「くそ! なんでこんなとこに石があんだ!」
茂上は石を蹴り上げ、唾を吐いた。
「どうなっているの?」
「さっき、一瞬、灯りが見えたから、よそ見したら石にぶつけて乗り上げちまった。整備されてない山林だからな。岩か何かだろ。車は大丈夫そうだ。それよりガソリンがやばい」
周りは真っ暗で何も見えない。エンジンは止まり、携帯電話には電波が届かない。二人は山中で立ち往生してしまった。茂上は辺りを見渡し、さっき見えた灯りを探した。その時、遠くから微かな灯りが見えた。
「あれだ!」
それほど遠くはない。
「明美、あそこに行ってみよう」
茂上は、山林の向こうに灯る灯りに指をさした。
「どうやっていくの?」
「山林に入って、そのまま真っ直ぐ行けば、近けぇだろ」
「やだよ」
「じゃあ、お前一人で車の中に居るか? エンジンはかけるなよ? 明日、ガス欠になって移動できなかったら面倒だからな。真っ直ぐ行けば10分くれーだろ、我慢しろや」
茂上はそう言って、半ば強引に林の中に入って行った。
明美は渋々、後を追う。
二人は手探りで灯りが見える方向に進んだ。灯りに向かって歩く途中、茂上と明美は周囲の世界が以前とは異なることに気づく。音が遠く感じられ、風の感触がない。彼らはお互いを見つめ合い、この異常な状況に対する恐怖と不安を覚えた。
灯りに導かれながら歩き続けると、山中にぽつんと佇む、平屋の古民家が現れた。その家は年月の重みを感じさせるもので、壁は剥がれかけ、所々にクモの巣が張り巡らされ、ドアは壊れそうなほど傷んでいた。どう見ても人が住んでいるとは思えないが、家の中からの灯りだけが煌々と外を照らしていた。インターホンはなく、茂上は時間を確認した。0時44分44秒。
「あれ? さっき時間を見間違えたかな?」
茂上は首を傾げた。
「ごめんくださーい。 誰か居ませんかー?」
返事はなく、構わずドアを叩いた。
茂上は一瞬ためらうことなく、そのドアを叩き続ける。
『ドンドン、ドンドン』
遠慮なくドアを叩く。
その音は、この静寂に包まれた山中で異様に響き渡った。ドアは軋む音を立てながら、少しずつ開いていく。すると、温かな光が漏れ出し、周囲を優しく照らした。
開かれたドアの向こうには、意外にも居心地の良さそうな空間が広がっていた。家の中は外観からは想像もつかないほど清潔で、古い家具が温かみを感じさせる雰囲気を醸し出している。
彼らは、少し不安な気持ちを抱いていたが、好奇心に駆られて家の中に足を踏み入れた。すると、家の中央にある囲炉裏で、一人の痩せ細った老人が彼らを待っていた。老人は、二人がこの家にたどり着くことを知っていたかのように、柔和な微笑みを浮かべている。明美は安堵の表情を浮かべ、茂上は無理に笑いを浮かべたが、心の中では安堵していた。この出会いは、茂上と明美にとって、ただの偶然ではなく、運命的なものであると感じていた。
「遠慮なく、飲みなさい」
「いただきまーす」
「困ったときはお互い様じゃろ」
茂上はお茶をすする。
『この爺さん何歳だ? 七十七、八ッてとこか……。 うぇ! まずいな。ビールねぇのかなぁ?』
「ねぇ、爺さんはこんなとこで独り暮らし?」
「んっ、こんな人里離れたとこで独りじゃ。そない悪くないぞ。歳のせいか、腹もすかん。酒やなんかは、知り合いが持って来よるんよ。なんも困りゃせんよ」
「そうなんすね! えっと、ここから町まで遠いっすか?」
「そない離れとらんが、もう遅い、狭いとこじゃが、よけりゃ泊まってきなされ」
その老人は、山道を走り続ける車にまつわる古い話を語り始めた。かつて、この山道を走り続ける幽霊車があり、遭遇した者は不幸な運命に見舞われるという。しかし、その幽霊車には、迷い込んだ者を正しい道へと導く役割もあったという。その話には、過ちを犯した者が真夜中に山道を走り続けることで贖罪をするという教訓が込められていた。
老人は二人を歓迎し、この家が一時的に休息を取るための場所であることを告げた。老人が寝るための毛布を用意すると、二人はひとときの安らぎをこの場所で感じていた。老人の家は温かく、どこか懐かしい雰囲気を持っていて、二人は久しぶりに安心感を覚えた。囲炉裏のある床の間で、毛布に包まれながら横になり、彼らが眠りにつくと、老人は静かに部屋を出ていった。
夜が明け、先に目を覚ましたのは明美だった。隣に寝ている茂上の姿がある。明美は慌てて、茂上を揺さぶり起こす……
「ねぇ、起きて! 起きてよー!!」
茂上は眠い様子で頭を掻き、
「な、なんだ? どうした?」
「み、見てよ!」
「ん!? あれ? こんなに汚かったか?」
茂上は目を覚ますと、家の中を見渡し、目を細めた。昨夜感じた、こざっぱりとした古民家は、陽が差し込むと、誰も住んでいない、何もない廃屋に見え、埃の被った空き家に横たわっているように感じた。板の間の囲炉裏も、火が消えたというよりは、元から火がついていなかった様に思える。
茂上は腕に巻いた時計に目をやる、時刻は0時44分44秒だった。
「チッ、時計が狂ってやがる」
家に差し込む陽射しは強く、太陽の高さを感じる。
妙に明るい陽射しに、茂上は奇妙な違和感を覚えた。
「ねぇ、あれ」
明美が指を挿す方を見る。
目の前には、干からびて、目を見開き、口を開けた状態で亡くなっている老人の遺体があった。遺体の傍らには、ガラスが割れた額縁に入った子供の写真、枯れた墓花、錆びた空き缶、そしてカップ酒の瓶が転がっていた。
「あのお爺さん!」
「ん~?」
「幽霊だったの?」
「まさか! 昨日は寒かったからな。夜中に心筋梗塞でも起こしておっ死んだんだろ」
茂上は虚勢を貼って、答えた。
「そうよね」
明美は小さく答えた。
「スゲーなコレ、記念に写メでも撮っとくか……」
「罰当たりなことやめてよ!」
「こんな体験、なかなか出来ねぇぜ? 自慢できるわ。やっぱ持ってるわ、俺、ハハッ」
茂上は震え声で、立ち上がると、ズボンについた埃を払って、
「帰ろう、気味が悪い。こういうのは変に関わらない方がいい。遺体もほっとこう」
二人は老人の遺体に礼拝し、車に向かおうと遺体に背を向ける。
後方で「カタンッ」と、音が鳴った……。
茂上は、振り返った。
そこには背格好だけは老人の形をしているが、顔だけ子供の顔を貼り付けた、『何か』が横たわっている。貼り付いた子供の顔は、目は吊り上がり、血走っていて、異様な表情をしている。その『何か』は、歯ぎしりを立て、口角から大量の血液を垂れ流している。その顔を見て茂上は恐怖心と同時に既視感を覚えた。
二人は老人の家を後にし、山林を歩き始める。
彼らが歩く世界は、かつて知っていたものとは異なり、空は明るいが太陽はどこにも見えず、時間の流れを感じることができなかった。
彼らは自分たちの身体が食事や睡眠を必要としないことに気づいた。
「ねえ、もしかして、私たち…」
明美が言葉を切り出した。
「俺もずっと感じてた」
茂上は深く息を吸い込んでみる。
その瞬間、彼らの心は軽くなり、自らの存在がこの世のものではないことを受け入れた。ふと、老人が現れ、彼らがこの世界に留まる理由や、現在の状況について、ゆっくりと、しかしはっきりと語り始めた。
彼らはその言葉の意味を理解できず、戸惑った。しかし、老人が見せる過去の思い出や、生前の様子を映し出す鏡を通して、徐々に理解を深めていった。
それは、怒り、悲しみ、後悔、そして愛の瞬間が詰まった、彼らの人生そのものであった。彼らはこの体験が、次の旅立ちへの準備であることを理解した。
彼らは長い間、過去の出来事や夢、そして感謝について語り合った。自分たちが亡くなっていることを受け入れ、この世を離れる準備が整ったと感じた。二人は灯りが示す道を進み、その先には彼らを温かく迎え入れる新たな世界が待っていた。
1999年。世間を賑わせた事件がある。
茂上夫妻は、自身の子供、茂上治夫(当時9才)と子供の友人である神山トオルを連れて四人でドライブをしていた。
その車はオープンカーで天窓があり、二人の子供は走行中、天窓から頭を出して、景色を眺めていた。
車は、車高制限1.5mのある架道橋のトンネルに差し掛かった。運転手の『茂上のりを(36才)』は、架道橋の低さに気がつかずに、そのまま走行した。
妻の『茂上きよみ(27才)』は、車が架道橋のトンネルに入る直前に、自身の息子である『茂上治夫(9才)』を抱き上げて車内に引き入れ、事故を回避した。しかし、友人の『神山トオル(9才)』は、架道橋の天井部分にある鉄骨に頭をぶつけ、首を折るという悲運に見舞われた。
神山トオルは首が折れて車内に崩れ落ちたものの、まだしばらく息をしていた。首が折れた『その顔』は目が吊り上り、血走って充血し、歯ぎしりを立て、口角からは大量の血液を吹き出していた。茂上治夫は、友人のその有様を見て、目を逸らした。
事故の当日……。
茂上のりをは飲酒運転を疑われたが、体調不良を理由にまず病院に行くことを希望し、警察の飲酒検査を断固として拒否した。病院でも医師による血液検査を拒み、翌日、アルコールが抜けた後に警察の飲酒検査に応じ、結果的に茂上は飲酒運転の疑いを免れた。
山林に数台のパトカーと救急車が停まっている。パトカーの無線を使って、警察官が話している。
ジージジッジ
「東京ナンバー し、ヨンマルゴ、白色の車、車種はトヨタ、カローラ。えぇ、搭乗者……。運転席に茂上治夫、36才。同乗者、助手席に朋野明美、27才。2023年4月、深夜未明、車が墓石にぶつかり、横転する事故があったと思われます。本日午後2時半、両名の遺体を確認しました。どーぞ」
ジジッ
「事故状況、死亡原因を教えて下さい どーぞ」
ジジッ
「えー。横転した車の前に、墓石が倒れています。墓碑銘は、故、神山トオル 神さまのカミ 山林の山 トオル カタカナ……。車に傷跡、墓石に残る車輪の痕跡から、運転席側前輪を墓石に乗り上げて横転した模様。車のフロントガラス、天井部は破損。運転手、助手席の女性、共に首の頚椎に損傷が見られます。横転の衝撃により、負傷した事が死亡の原因だと思われますが、死亡時刻は不明……。おそらく車のデジタル時計が衝突により停止している事から、4月4日の深夜0時44分に事故が発生したものと推測されます」
ジジッ
「了解しました。現場検証をして、事後報告を署内で行って下さい。よろしくお願いします どーぞ」
ジジッジ
「了解しました。無線を終わらせます どーぞ」
ジジッ
「了解」
ジジッ プッ……。
慌ただしい現場検証が落ち着き、警察官の何人かが、立ち話をしている。
「神山トオルって書いてあるけど、この墓は誰の墓か解るか?」
「たしか、20年以上前にニュースになった、架道トンネルの事故で亡くなった児童の墓で、亡くなった児童の父親が、たしかこの近くに独りで住んでいたと思いますが……。」
「あぁ! 神山さんね。あのじーさんなら、先々月くらいに亡くなってるよ。たしか、こないだ49日だったんじゃないかな? 息子さんを無くしてから、奥さんも死んで、下の町の無縁墓地に埋葬されたんじゃなかったかな? この息子さんの墓も墓仕舞いもされず、そのまま残る事になるのかな?」
「役所に連絡して、墓の中から出てきた骨壷を町の墓地に移してやろう。事故もあった事だし、こんな所に墓が1つあっても良くないだろう」
「そうだな」
同日の1時42分にスマートフォンを操作していた痕跡があるため、茂上治夫は事故後しばらく生存していたと考えられる。ただし、その真偽ははっきりしていない。
後の調べで、事故した車が盗難車両であったことが判明。さらに、茂上治夫が飲酒運転をしていた疑いが浮上した。
無免許運転と飲酒運転による道路交通法違反、窃盗の疑いで4つの罪に問われたが、事故が自損事故であり、かつ被疑者が死亡しているため、刑事裁判を行うための訴訟条件を欠いていたため不起訴処分となった。
朋野明美は、茂上が働いていたホストクラブの女性客で、かなりの借金がたまっていた、ということくらいしか分かっていない。