喪失感でいっぱいになったとき、どうしますか?
問題提起
これみんなある?
みなさんの中にこのような体験をしたことがある人はいるだろうか。
「新しくコミュニティに入ったり、新しく活動を始めたりして、それを体験している最中はとてつもなく楽しくて充実感や満足感があるのに、それが終わった途端にとてつもない喪失感に襲われてしまう」
という体験である。
それを体験しているときはどこか夢見心地のような…、でも終わったときにはいつの間にか現実に引き戻されて、喪失感あるいは虚無感を感じる。
(※もちろん夢見心地のときも現実は現実である。)
そして現実の物事(学生だと授業・課題とか)に対してやる気が全く失くなってしまうことが時々ある。
「新しく」と書いたが、別に新しくある必要はない。
私の個人的な感覚で、スタートが「新しい」方が比較的喪失感を感じやすいと思っているだけである。
既存で仲良くしているコミュニティや、既存で行っている活動が終わった場合でも、人によっては相当の喪失感を感じてしまうことはある。
例えば…
1つ私の体験を挙げておこうと思う。
比較的最近の話であるが、大学が舞台となる短編映画の撮影に携わる機会があった。
このプロジェクトでは、有名な映画監督や助監督など、業界でプロのスタッフや俳優が全国から集まり、これに参加した学生はスタッフの一員として、演出部や制作部としての役割を果たすことができた。
実際参加してみてどうだったか。
「もうめちゃくちゃきつくて、楽しかった。」
情緒不安定な文になってしまったが、実際にきつかった反面、本当に楽しかった。
応募した当初は詳細がなく、大学の休み期間でやるのかなくらいに思っていたが、いざ蓋を開けてみると、ふっつうに授業がある日程、ましてや中間テストの期間で撮影期間が組まれていた。
もちろん授業が優先されたものの、ただでさえ課題もめちゃ多い大学なので、体力的にきつく、授業が撮影の休憩時間になり、爆睡してしまっていた。
ただ、初めましての学生やプロのスタッフ達と映画撮影をするということが本当に新鮮な体験で、常にワクワクの状態でもあった。
準備段階で小道具を作ったり、演出部としてカチンコを打つ機会を頂いたり(ちなみに何回も失敗)と、映像業界に関する貴重な経験ができたのに加え、一つの作品を作り上げるという目標に向かって全員が進んでいくため団結力も強く、この撮影期間はとても充実感に満ち溢れていた。
このプロジェクトが終わってしまったときは、とても喪失感を感じたものである。
(関係者の方々、たくさんご迷惑をおかけしましたが、改めて本当にお世話になりました🙇♂️)
本題に戻ります
もちろん大前提、結局この喪失感を感じるかは人によりけりで、こんなものなんて全く感じずに、テキパキ次の物事に進んでいく人だっている。
しかし、少なからず引きずってしまう人もいると思うので、そういう方への微々たる助けにでもなればと思い、今回のnoteを書いてみる。
「喪失感に捕らわれてしまったとき、
そこから脱出するためにはどうすればよいのか。」
参考
これヒントになるんじゃないか…?
以前、大学の観光学の授業の中で、エンドマンド・リーチの儀礼論が取り上げられた。
もともとは多分、人類学の通過儀礼(日本では成人式が例)に関する概念だが、これがアメリカの観光人類学者のネルソン・グレーバーンによって、観光活動の概念に活用されたようだ。
大学の観光学の授業では、観光活動がよく「日常から離れた非日常的な経験」という感じで説明がなされている。
改めて「日常ー非日常」の言葉を用いて、図を簡単に説明すると、
図の中の普通の状態が「日常」、(地位、社会、時間から外された)普通ではない状態が「非日常」と表現されており、観光活動においては、労働を行う「日常」から抜けて、観光しているときは「非日常」を経験し、その後に再び「日常」に戻るという三局面の遷移があるということが表されている。
学問に精通してる人からしたら語弊がありすぎるかもしれないが、っもう、ほんっっとぉに噛み砕くなら
「観光してるときって、仕事してるときとかの現実世界とバイバイして、非日常感あるよねぇ。んで、観光終わったらまた現実世界に引き戻されちゃうよねぇ。」
ということであながち間違っていないのではないかと思う。
(※観光学の中では分離と統合の儀礼の部分に関して、あんまり大きく触れられていないイメージが個人的にある。ちゃんと勉強できてないだけかもしれない…。)
主張展開
はじめに
「じゃあその非日常から日常に戻る瞬間が、喪失感なんじゃないの?」
とも考えられるが、私はもうちょい踏み込める気がする。
そもそも、上図は通過儀礼や観光活動で使われている概念なので、もう少し現実に適用できるものに変えてみたい。
そのために、私の具体例からいくつか要素を引き出してみようと思う。
(これ以降、「非日常」の地位、社会、時間から外されているという特性は一旦ないものとして考える。)
一旦、先の私の具体例をこの概念に当てはめて考えてみると、
「日常」=大学生活
「非日常」=プロと一緒に映画制作を行う体験
ということになる。
学問する大学生としての生活が基本とされる中、映像業界の体験をすることは、基本の生活から逸脱した非日常となる。
要素1
さて、まず引き出せる要素として、日常、非日常の判断は、①主観的なものということが挙げられるだろう。
講義を受けて課題をこなして…という一般的な大学生活のなか、「映画の撮影体験」という行為は、私にとって非日常であった。
しかし、これが例えばプロのスタッフ達にとってみるとどうか。
あくまで数ある仕事のうちの一つをこなしているという認識なのであれば、彼らにとっては日常である。
もちろん「学生が混じる」という機会は珍しく感じるかもしれない。しかし、「学生が混じる」こと自体は、彼らの日常にただ付け加えられただけの物事であり、彼ら自身は日常から逸脱していない。その点では、少なくとも私ほど非日常感は感じ得ないだろう。
要素2
次に、主観的なものということから、②「非日常」は時間が経つにつれて「日常」に統合されていくということがいえると思う。
今回実際にプロジェクトを行っていた期間は一週間ほどであったが、例えば、これが数か月だった場合はどうだろう。
撮影が終わりに近づく頃には、いちスタッフとしての動き方もだいぶ把握してきているだろうし、授業と映像制作を両立する大学生としての生活リズムになれ、それが新しい日常として、だんだんと日常化されてくることになる。
一旦、ここまでを図にまとめるとこんな感じではないだろうか。
新しい環境やコミュニティなど、今までの「日常」からは異なる「非日常」とされるところに身を置くと、その日常と非日常の間でギャップが生じる。そして、そのギャップを埋めるかのように、非日常の時間が長ければ長いほど、自然とそれが日常として統合されていく。高校、大学に入学するときや就職をするとき、などなど、この図の一連の流れが人生の中で幾度も繰り返されるのではないかと思っている。
ただし、これはほぼ日常と非日常の統合ができたときの話で、まだこの図の中に喪失感の原因となるものはない。
要素3
そもそも新しい場に身を置いたとしても、そこでの環境が悪かったり、充実感ややりがいがなかったりしたとき、その新しい場が基本の生活として統合される前にそこから離れたとしても、喪失感なんて感じないだろう。むしろ清々しい場合もある。(「新しくバイトをやり始めて、めっちゃブラックですぐ辞めたんすけど、辞められて良かったぁ」的な。)
なので、一見非日常に見える新しい環境でも、気持ちがマイナスに働く場であるなら、結果としてそれは上の図の「非日常」には当てはまらない。
これを踏まえて、一応、気持ちのプラスの縦軸を追加しておく。
この気持ちのプラスマイナスを決めるのは、個人によるもので、環境、人間関係、体力、メンタル、価値観など、様々な要因が考えられる。
結論
よぉ〜し、良い感じにまとまってきた気がする。
プラスの縦軸を追加したとはいえ、「喪失感」自体は明らかにマイナスから作用されたもの。
以上、これまでのすべてを踏まえて、
私が最終的に喪失感の原因だと考えたのは、
「非日常が日常として統合されようとしている途中で、
そこから切り離されてしまったときに生じるギャップ」
なのではないか、と結論付けることにする。
図にするとこんな感じ。
終わりに
ごめんなさい🙇♂️
「え、そんで結局、喪失感から抜け出す方法は?」という人もいると思う。
そういう人には、ほんとうにごめんなさい…。
今回のnoteはここで終わりです。
「全然、喪失感の脱出方法とか書かれてなかったやん!」という方々。
いや、本当に申し訳ないっていうのは分かってるんだけど、ちょっと弁明させてほしい…。
問題解決アプローチについて
個人的に、問題解決をするときには主に2つのアプローチがあると思っている。
一つは、問題に対する具体的な策を検討して解決すること。
もう一つは、問題自体が消失することで解決となる方法である。
問題消失型の中には、「そもそもこの問題って問題じゃないじゃん!」と実際のデータや現状から気付くものと、問題とされているものの性質を理解することで「そういうものなのだ」と自分に落とし込むものがあると思う。
今回の喪失感に関しては、その問題消失型の「そういうものなのだ」パターンをとってみた。
個人の尊重
確かに、この落とし込むアプローチは、人によっては全く問題解決できたように見えないし、すっきりしない人も大多数だろう。
この方法で出した答えで、みなさんそれぞれを納得させることができるかと言われれば、私も「到底NO」と答える。
しかし、それは結局今回の喪失感の問題が、個人によるものだからだ。
「喪失感を感じるか」は人それぞれだし、「喪失感をどう解決するか?」も人それぞれである。
個人によるものである以上、全員に通用する一般的で汎用性のある答えなど、絶対に無い。
だからこそ、個人による個人の問題は「自分への落とし込み」という解決アプローチで答えを出すことが一番効果的であると思う。
今回の喪失感というものについて、私の考え方で落とし込めなかった方は、ぜひ自分の中での落とし込み方を探してみてほしい。
そして、人それぞれのアプローチや落とし込み方があることを知った上で、日常のコミュニケーションでも、他人への尊敬をもって接していきたい。