言語化とかいる?
背景1
超個人的な話から始まるのだが、つい先日、大学の夏休みで私は免許合宿に行ってきた。
山に囲まれた田舎の町で、チェーンの飲食店などはなく、コンビニも1軒しかないが、このような自然いっぱいの場所は逆にあまり来る機会がないので、良いリフレッシュになったと思う。
合宿が始まる前から、なぜか運転にはそれなりに自信があった私は、ハンドルなんて一度も触れたことがないのに、友達にも「まあ余裕っしょ」なんて言って、冗談半分で調子こいていた。
普通は調子こいていると、後に痛い目にあうのがオチだが、教習所内で初めて車を運転した時に隣の教官から
「あ~、もう初めてでこれだけ運転できれば十分すぎるねぇ。」
と呟くように言われた。
本当にセンス自体はあったみたいだ。
(もちろん、心の底から図に乗っているわけではないので、ちゃんと慎重で安全な運転を心掛けているよ…?)
次の日も、違う教官から
「センスあるね!どこで身につけたん?」と聞かれ、
「いやいやぁ、そんなことないっすよぉ😏」
と、嬉しかった反面、素朴な疑問が頭の中で浮かんできた。
「ん?そういえばこのセンスってどうやって『言語化』するんだ?」
背景2
大学生活を送る中で、言語化というものの重要性をひしひしと感じる。
コミュニケーションにおいてはもちろんだが、特に大学生は就活を前にして、必然的に自己の言語化が要求される。
私は対人で言葉を扱うのは明らかに苦手だ。
自分の感覚的な意見は定まっていても、その論理を瞬時に人に上手く説明することができない。
例えば、私が現在所属している学生団体の中で、新入生をリクルートするための方向性を決めるときのこと。
意見を求められ、「こういう方向性が良いと思う!」と発言して、その理由を説明しても上手く伝わらずに「?」という顔をされることがあった。
時間があればかなり説得力のある理由を立てられると思うが、瞬時に求められると全く頭が働かない。
しかし、ミーティング中に意見の理由を一つ言うだけで、それを言語化する時間を取ってもらうのは、それこそ馬鹿馬鹿しいし、なにより恥ずかしい。
故に、即座な言語化を求められたときの、全てを諦めた口癖は
「ん〜.…、 直感。」
である。
(ミーティング前に理由を考える時間をきちんと取らなかったのが悪い笑)
加えて、私の所属する学生団体は他者を尊重した円滑なコミュニケーションをとても大事にしている。お互いの意見を交わす中で、相手に自分の考え方を理解してもらうためには、やはり言語化のスキルがある程度求められる。
これまで、ほとんどの日常の物事を感覚やセンスに頼って行動してきた私はここのハードルが高い。
故に、それを学生団体とは関係のない日常でも自然と意識するようになった。
「ん?そういえばこのセンスってどうやって『言語化』するんだ?」
本文
思い当たる理由…
運転のセンスを身に付けた理由として、車に乗るときに周りの景色を見ながら、なぁ~んとなく自然と頭の中で運転のシミュレーションをしていたという点が一つ挙げられるかもしれない。
「運転者がどのようなタイミングでアクセルやブレーキを踏むのか、どれくらい踏めばどれほど車の速度は変わるのか、曲がるときにハンドルをどれくらい回すのか、ハンドルをどのタイミングで戻していけばいいのか…、」などなど。
周りの見える景色と自分が乗っている車の動きを照らし合わせながら頭の中でイメージをするのが楽しかった。
また、何故か私は小さい頃から後部座席より助手席に乗る方が好きだったのだが、今考えてみると、運転のイメージをよりクリアにできるから助手席が好きだったのかもしれない。
(運転席の次に事故率が高いのは助手席だから、年齢が低いほど本当は避けるべきだぜ☆)
ただ、この理由はあくまで一つの憶測にしか過ぎないし、みんなこれをすれば運転が上手くなるってものではない。
「小さい頃から頭の中で運転のイメージトレーニングをしたら、誰でも運転が上手くできますよ!」とか言うと、まさに口下手な詐欺師のそれである。
概念の導入
ところで、大学で環境学の授業を受けているときに、「暗黙知」「形式知」という概念を教わったので、せっかくだからここで使ってみよう。
簡単にまとめると、
「暗黙知」は、個人の経験や勘、直観などに基づいた知識のことで、他者に共有できないという特徴がある。
例を出すと、それこそドライビングセンスや、職人・熟練の技術、デザイナーセンス、刑事の勘などが挙げられる。
一方の「形式知」は、データやマニュアルとして明文化・言語化された客観的な知識のことで、形式知化された情報は他人と共有するのが容易という特徴がある。
例として、操作マニュアルや料理レシピなどが挙げられる。
結
これを踏まえてみると、運転のセンスに関して、
「言語化できると思ったらぁ~、暗黙知でした~。
チクショー!!」
と白塗りの赤い着物を着た方に叫んでもらえれば、今回のnoteを終えることができる。
ただ、私は白塗りするためのメイク道具も、赤い着物も持ってないので、終わらせずにもっと深掘りをしてみよう。
暗黙知の深掘り
「暗黙知」というものに関して、実はどうやらそれぞれの研究分野で異なる解釈がされているらしい。
そもそも「暗黙知」という概念は、1966年、マイケル・ポラニーというハンガリー出身の科学者が提唱し始めたものである。
大崎(2009)によると、ポラニーの「暗黙知」は、「語られることを支えている語らざる部分」であり、通常無意識的で、詳細には表出することも他人に伝達することも不可能であるという。
一方で、経営学者の野中郁次郎氏が主張した「暗黙知」の概念は、表出伝達可能である。
この表出伝達可能な暗黙知を前提としたSECIモデル(個人の暗黙知を形式知に変換したうえで組織全体に共有し、それらを組み合わせて新しい知識を生み出すフレームワーク)が、現在ではナレッジマネジメントの基礎理論としてとても有名みたいだ。
ポラニーの暗黙知と経営学での暗黙知の違いが、ちょーっと分かりにくい感じがするので、先ほどのセンスに関する文を活用して改めて自分なりに整理してみようと思う。
まず経営学の考え方で当てはめてみると、文章の真ん中あたり、
「運転がどのような~(中略)~戻していけば良いのか…、」
の部分、この感覚が暗黙知にあたる。
もしこの感覚に答えを出して言語化すれば、SECIモデルでいう「表出化」であり、もともと暗黙知であったものが形式知に変換されることになる。
これに対してポラニーの暗黙知は、「運転がどのような~(中略)~戻していけば良いのか…、」の部分でどれだけ言語化しようと、それはドライビングセンスを身につける方法の表面的な一部を言語化したにすぎない。
その方法を学んだところで、「頭でイメージすること」と「センスを身につけられること」に直接の関係はなく、結局このセンスを身につける方法の完璧な言語化は絶対にできない。
いくら言語化を重ねようと、カバーできていない部分がある。これがポラニーの提唱した本来の暗黙知である。
ちなみに、みなさんはどちらの暗黙知推しですか?
さっき「本来の」って書いちゃったんだけど、お察しの通り、私個人的にはポラニーさん派なんですよねぇ〜。
まあ普通に最初に提唱されたっていうのもあるし、暗黙知が形式知に変換できるんならもうそれ暗黙知じゃなくて、形式予備知(めっちゃ適当)とかでいいじゃん?って短絡的に思っちゃうんですよね。
余談です。失礼しました。
真結
1960年代のポラニーの暗黙知の概念が、経営学では表出伝達可能であると変化して、今も活用されているように、
特にこの現代は、仕事や組織のコミュニケーションにおいて言語化が重要視されている。
もちろんパワハラなどはもってのほかだが、「見て学べ」というスタンスも少なくなってきているのではないだろうか。
そして、仕事においての「見て学べ」スタンスは、「言語化できない」ということを前提としたポラニーの暗黙知にどこか繋がりがあるように感じる。
しかし、いくら「結局は言語化できない」からといって、それに対する努力をしないことは避けたい。
私も、先ほどポラニー推しだとは言ったが、それを日常生活まで持ってきて言語化できない言い訳にするほどじゃあない。
最低でも、言語化スキルがと〜っても重要であることは、理解しておくべきだと思う。
また、受け取り側も「全然言語化できてねぇから」といって伝える側を突き放すのは避けたい。
現代では排除されつつある「見て学べ」だが、やはり、芸術分野の職業であったり、効率よく動かなければならない現場仕事であったりと「見て学べ」から完全に離れることができないものも当然たくさんある。
日常においても、両親や祖父母の「〜しなさい」「〜しちゃだめ」という一見なんの根拠もなさそうな、言語化できてないようなものも例外じゃあない。
伝える側と受け取る側が互いに立場を押し付け合うことなく、双方が尊重し合うことで、より円満なコミュニケーションを作りあげることができると思う。
そして、この伝える側と受け取る側は、私たちがどちらかに属するという話ではなく、各個人がどちらにも属している。全員が伝える側であり、受け取る側だ。
故に、誰しも絶対にこんなスタンスは持つべきじゃあない。
「言語化とかいる?」
【参考文献】
大崎正瑠(2009)「暗黙知を理解する」『東京経済大学人文自然科学論集』127, 21-39.