音楽を愉しむ~久しぶりにフルヴェン「第九」を聴いて
音楽を聴くと、とても不思議なことが起こります。
それは、アートや文学に接するときにもある程度は起こりうるものなのですが、音楽の方がずっと顕著に頻繁に起こるのです。
こんな経験がありませんか?
みなが帰りを急ぐある夕暮れどき、喧騒の道を歩いていて、ひょんな調子で頭の中にある聞き覚えのある音楽のひとふしが流れてきます。
それをきっかけに、記憶の底に眠っていた「ある」甘美な思い出が頭の中に鮮明に浮かび上がってくる、あるいは、はっきりとは浮かび上がってくるものはないが、胸の奥をつつく「つん、とした」なにか不思議な感傷にとらわれてしまう、そんなふうなことです。
小林秀雄は、そうした体験を一幅の格調高い文芸評論に仕立て上げました。
「モオツァルト」。
ー 小林秀雄は、道頓堀をうろついているときにト短調のシンフォニー(交響曲第40番 第4楽章 Allegro assai )のひとふしが突然頭の中で鳴り響いた経験のことを思い出し、これをきっかけとして思索を深め、弦楽五重奏曲K516の「モオツァルトの悲しみは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる」という有名な名文を迸らせました。
音楽を聴く不思議さとは、ある音楽を聴いた経験が、そのころの出来事と感情の記憶と分かちがたく紐付けられて深い「記憶の引き出し」の中にしまい込まれ、そして、何かの拍子に音楽という「取っ手」によって、その感情の記憶が引き出しから取り出され、今と結びついて新たな感興をもたらしてくれるという、その働きのことです。
ですから、そうした音楽の体験からもたらされる不思議な感興は、なにもクラシック音楽に限ったものではなく、耳に親しみやすいPOPSや歌謡曲、童謡、演歌あるいはフォーク、ロックやジャズなどジャンルにかかわらず共通してある、と私は思うのです。
たとえば、私の場合。
私のある一定時間に集中して音楽を聴くという行為の始まりは、おそらく小遣いはたいて買ったミッシェル・ポルナレフのLPレコードからだったと思います。あのサイケデリックなジャケットは今も手元にあります。
それは遙か半世紀に及ぼうかという昔の話です。
半世紀も前の出来事などは、古い友人に会ったときに、それぞれの記憶を持ち寄りながら、「あんなことあったよなー」「そうそう、こうだったよなー」程度のことは断片的にたどることは出来ますが、それだけでは、その時自分がどんなことを考えていたなんてことまで思い出すことは到底は出来ません。
ところが、不思議なことに、ポルナレフの「シェリーに口づけ」や「愛の休日」を聞くとあの頃のさまざまな記憶や甘酸っぱい気持ちまでが、鮮明に呼び覚まされてくるのです。
同じように、今でもジャニス・イアンを聴くと、暑い夏の夜にベッドに寝っ転がって、理由もなくやさぐれた気分で「At Seventeen」をしんみり聴いていたことや、イーグルスを聴くと、友人の狭い下宿部屋で、カセットをリピートにして徹夜麻雀に興じていた大学生の私が蘇ってきます。
さて、本題のクラシック音楽。
クラシック音楽というものに興味を持ったのは、おそらくは小学生の頃の音楽の時間から。つまり、黒板の上に張り巡らされたいかつい顔の作曲家が並ぶ音楽教室でのことです。
人前での歌唱が苦手で、リコーダーもあまり得意でなかった音楽の授業で、なにもしなくてよい気楽な「鑑賞の時間」に先生がレコードを乗せたひとつの音楽に惹きつけられました。たった3分ほどのパイプオルガンの小曲だったのですが、あの独特の甲高いメロディーがしばらくずっと耳について離れなくなりました。
先生は、同じ時間に、モーツァルトやベートーヴェンも聴かせていたと思うのですが、不思議なことに、これらはまったく記憶にないのです。この曲だけがくっきりと記憶に残ったのです。
そして、この曲が、J.S.バッハのフーガト短調BWV578「小フーガ」であることを知ったのは、大人になったずっと後になってからです。
それからどちらかというと、ビートルズやサンタナそれにキャンディーズなどに夢中になっていた私が、クラシック音楽にどっぷり嵌まり込んでしまったきっかけになったのは、まことにありきたりな話で恥ずかしいのですが、あの「第九」です。ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」。
高校生ぐらいからクラシック音楽を聴き始め、乏しいお小遣いをはたいて結構な数のレコードを買い集めていたし、髙価ではないがそれなりのオーディオセットで、なにがしかは毎日のように聴いてはいたけれども、「クラシックって本当に楽しい? 無理して聴いていない? スノビズム(俗物趣味)っぽくない?」「本当はロックやフュージョンの方が楽しいんじゃないの」という内心の声が、そのころは絶えず聞こえていたような気がします。
それがある年の、師走の、ある日のこと。
すでに学校が冬休みに入って、すっかり寝坊してしまい、パジャマのまま、リビングにあった「ラジカセ」(ポータブルのラジオカセットのこと)のスイッチをひねって、その時、NHKーFMから聞こえてきたのが、「第九」の第3楽章「アダージョ・モルト・エ・カンタービレ」、あの天国的に変奏をくり消すやつ。
電波状態が悪く時々途切れるし、音はガサガサだし、録音状態が悪く歪んでいるけれども、そこから聞こえてくる信じられないくらい美しい旋律に呆然としているうちに、突然金管の警句が鳴り響いて、感情が激しく揺さぶられる。音楽というものが、ときに身が震えるほどの驚天動地な感動を与えることを、そのとき初めて経験したのです。
それもそのはず。音源は、有名なフルトヴェングラーのバイロイト版といわれる名盤で、1951年モノラルのライブ録音です。
それからは、この時受けた感動をなんども味わいたくて、いろいろな作曲家、演奏者のLPレコード、後にはCDを買い漁るようになりました。まさに、沼にハマった瞬間でした。
その後しばらくしてからは、当然のように、この時の感情と記憶は、この歴史的名演とともに私の記憶の引き出しにしまい込まれてしまいました。
ところがこないだ、評判のMQAーCD版を手に入れ、久しぶりにこの名演を聴きました。すると、数十年も前の寒い朝のパジャマで感動に浸っていた自分のことを鮮明に思い出したのです。ー音楽は、まるで「タイムカプセル」みたいだ!ー
音楽の楽しみ方は人それぞれです。鑑賞する楽しみ、演奏する楽しみ、解釈する楽しみ、気楽なBGMとしての楽しみ。
私の楽しみ方もずいぶんと変わってきました。
昔は、「「ブラ1」(ブラームス交響曲第1番)ならベーム(カール・ベーム)だよな」、「カラヤン(ヘルベルト・フォン・カラヤン)は美しいが深みがなくてだめ、むしろクレンペラー(オットー・クレンペラー)の悠揚迫らぬタクトのほうが素晴らしい」、「日本人では、なんといっても朝比奈隆がドイツ的だ、いや小澤征爾の溌剌とした演奏も捨てがたいぞ」などと「通」ぶった会話を愉しんだり、あるいは新進気鋭の演奏家をいち早く発見して(?)好事家仲間に披露したり、現代音楽ばかり聴いていっぱしの衒学家(?)を気取っていたものですが、最近ではだいぶと変わってきました。
記憶の引き出しとして音楽を聴くことを愉しむようになってきたのです。 歳を重ねてしまったということもあるでしょう。「引き出し」がたくさんできましたからね。懐メロとおんなじじゃないかという声も聞こえてきそうですが、でもそういった音楽の楽しみ方もまたあってもいいのではないかと、最近になって思うようになりました。そう、なにもクラシック音楽だからといって、作曲家や楽曲を予習し、姿勢を正して「鑑賞」しなければならないと決まったもんでもあるまい。
音楽にしてもアートにしても、あるいは文学にしても、ひとは、年輪を重ねるごとに感じ方が変わってきます。
そうだ! その変わってきた自分を再発見する愉しみを味わうために、私は、これから、ライブラリーから、古いCDやLPを引っ張り出して音楽を聴くとしよう。文学作品だって、歳を経てから読み直すことで味わい深くなるというじゃないか、そう、ワインの熟成を味わうように、「音楽を聴くこと」を愉しもう・・・。