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剣道具の不易を考える

伝統としてある物事を後世に残していくためには、それ自体の本質を守りながら時代に合わせて変化していかなければならない

高野佐三郎先生が「剣道具は完成された」といってからもうすぐ100年になる。
また戦後剣道が再開されてから70年が過ぎた。

その間、剣道具は大なり小なり変化をしながら今に至る。最近では「古き良き剣道具」というフレーズも聞こえてくるほどである。

個人的には、時を経て少しずつ変化をしていくことは自然な事であり、その物事を伝承していく為には必要な事だと考える。
実際に剣道具も材料やデザインが昔とは変わっている箇所がある。

ただ伝統として継承していく場合、変わらない本質、不易がなければならない。
では剣道具の場合は?

剣道具は剣道の為の道具である

剣道具について突きつめていくとこの一言に集約される。

それは、その時代の剣道家が「剣道とはこういうものだ」と考えた理論に合わせて剣道具が形を変えていくという事である。

剣道具の形が変わるとき大事になってくるのが、
「剣道をどう定義するか?」つまり「剣道の不易」であり、
そして時が経っても共通している「剣道の定義」が明確であることである。

「剣道の不易」が明確であれば、「剣道具の変わらない構造」=「剣道具の不易」が存在することができるのである。

竹屋流剣道具からみえる高野佐三郎先生の考える剣道

高野佐三郎先生が昭和のはじめに、「剣道具は完成された」といわれたそうだが、それは剣道具の構造が完成に辿りついたということだと考えている。
竹刀で刀法を学ぶこと(剣道)のできる道具として完成したということである。
そして竹屋流剣道具の持つ甲手の構造は、押し斬りの為の甲手である。

剣道具の構造が変わってきたことをどう考えるか

最近は材料やデザインだけでなく、剣道具(特に甲手)の構造が変わってきた。
それは剣道具作りの立場からすると、剣道の本質に関わる問題である。

刀法を意識しない競技用に特化した甲手、競技用の動きを前提とした動きやすい道具の構造、極端に手首の返った甲手や布団の短い面はそのあらわれである。

*面布団の長さなど議論されているが、いくら規則を作っても剣道について議論を進めない限り議論するだけ無駄であると個人的には思う

剣道具の構造の変化を見る限り、剣道がこの先どうあるかの岐路に立たされている。

文化的にも競技的にも不合理な事で身動きが取れなくなってしまってきているようにみえる。このままでは衰退するしかなくなってしまう。

先延ばしにせず、今こそ「剣道の定義」について剣道界が議論するべき時である。

その結果、竹屋流剣道具が古流剣道具になってしまうかもしれないが、これから剣道に関わる人の為にも「剣道の定義」を明確にするべきである。

そして「剣道具の不易」が明確である、確固たる剣道界を楽しみにしている。

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