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死神の灯火

 月の無い夜、暗黒に染まる空から雪の降る煉瓦造りの通りを一人で街灯に照らされつつ項垂れて歩く。
 彼には病床の恋人がいるのだが、日に日に病状が悪化していく様子に焦燥感を募らせていた自分にはバイト代を稼いで彼女の医療費に当てるほかない、何でも屋をしつつバイトを何個も掛け持ちしてるのだが、これ以上バイトを増やしたら本当に体を壊してしまいそうだ。
 ため息をこぼした瞬間。
「おい、にいちゃん。何か悩んでいそうなお顔だな」
 突如と声を掛けられ、声の主を探るために慌てて上下左右へと首を回す。
「こっちこっち」
 ようやく声の主へと視線を向けると路地裏に蹲っていたボロ切れを纏った嗄れた老人だった、いや皺だらけの顔に見えるが、よく見ると仮面だ。
  こちらを見る仮面の奥の瞳が水面鏡の下で獲物を狙う鰐の如く俺の考えを見透かしているように感じられて気味が悪い。
 老ぼれに施しを与えられるほどの余裕はない。一文も手のひらからこぼしたくないのだ。
「何もんだ、あんた」
 訝しげにそう尋ねると「俺は死神だ」と現実離れした問答が返ってきて少し辟易する。
 よっこらしょと男が立ち上がると2mはあろう巨体に思わず見上げてしまう、俺は180はあるのだが、流石にここまで首を反らして見上げることが中々ないのでかなり驚いた。
 仮面についているのか、ましてやこいつの地毛なのかは知らないが長く伸びた癖のある長髪が夜の帳を引きちぎって付け足したような漆黒に染まっており、怪物が横たわりながら虎視眈々と伺ってくる深淵の奥底を覗き見ている気持ちになる。
 死神と言えば魂を刈り取る大鎌だったり、全身骸骨だったりとそういうイメージだったが実物を見るとイメージとのギャップに圧倒された。
「俺は物好きでよ、あんたに恋人を救うチャンスをやる」
「本当か!?」
 というより何でそんなことを知っているんだと思ったが、それよりも先に希望の光からの掲示が先に思考を揺らし、反射的に口にしていた。
「ああ、自分の胸を見てみな」
 死神の指先をなぞるようにゆっくりと下を向くと、心臓のあたりに燈る赤い炎を幻視した。
「え?何だこれ…」
 試しに左胸を触ってもイメージしたよりかは熱く感じなかったし、いつも通りに生命活動を支える中枢部として機能しているだけだ。
 それに不思議と熱さとは反比例して汗一つかいていない。
「そいつはあんたの灯火さ、生命力と言ってもいい。与えることで難病も最も簡単に治せる、ただ奪うこともできる。ただ一つだけ約束事がある、他人から炎は奪わないこと。それは俺の仕事だからな。それじゃ健闘を祈る」
「けど、なんで死神の癖にそんなことをしているんだ?神のくせに暇なのか?」
 その一言に死神は吹き出した。
 一神教を信仰しているなら間違いなく聞くことではないだろう無礼な質問を投げかけられても、普通に笑い飛ばすあたりが死神らしい。
 世が世なら反逆罪とかで首を刎ねられていたかもな。
「人間の癖に随分な口聞くじゃねぇか、単にお前の欲求を揺さぶってみたらどうなるかって話、面白いだろ?」
 別に何も面白くないがといいかけて口を噤む。
 ただ、その可能性に賭けてみるというのも悪くはなさそうだ、そのことが過った瞬間に死んでしまった瞳の奥に薪を焚べられた焚き火が再び火勢を取り戻すように野心が宿った。
「これからどう転がるかはお前次第ってことだ、じゃあな。」
 瞬きをしたほんの一瞬で目の前の長身の死神は消えていた。湿った大粒の雪が頭部に積もっていく中、俺は胸に灯る紅を凝視した。
「確かに面白そうだな」
⚪︎
 朝起きると俺の心臓が燃え盛るように熱く感じた。
 ふとした違和感が夢現から覚めた時には鎌首を擡げて好奇な視線を向けるには十分な要素がそこにある。
 こいつのおかげで火事になって焼死するという無駄な悪夢に魘されたが。
 昨日のことは夢ではないと再認識し、どうするべきかを思案した。今日は午前中で依頼が終わる。終わったらまずは彼女に会いに行こう、死神の話を証明するために。
 雪の積もったメインストリート、灰色がかった積乱雲からは絶えずして触れては溶けてしまう白い結晶が降り注ぐ。今日も湿っているからまた積もるなとうんざりした心持ちでそう考えた。
 何度も踏みつけられて固くなった雪が敷き詰められた床を歩いていくと街灯に手をかけてしゃがみ込んでいる人が視界の中に入った。
 単純に具合が悪いのか、それともー。
 駆け寄ってみてその人の肩に手を当てる。
 大丈夫ですかという瞬間に自分の心臓から一つの炎の欠片が抜きでてその人の体の中へと入って行ったのだ。抜け出るその一瞬全身を氷海目掛けて全裸で飛び込んだような悪寒が巡った。体が順応できず立ち眩みそのまましゃがみ込んだ。
 それと同時に具合が悪そうだった人が見る見るうちに元気そうに背筋を伸ばして立ち上がると、隣でうずくまる俺の姿を見て大丈夫かと背中に手を当てて声をかけてくるが、大丈夫ですと強がって見せた。
 すぐに調子が戻ってきた俺はその場を後にする。背後に突き刺さる心配そうな視線は数秒もすれば跡形もなく霧散していった。
 あれは何だったんだと思ったが、昨日の死神の話を思い出す。
 もしかしたら心臓発作か何かで唐突に倒れたのを俺が炎を差し出したおかげであの人は助かったのか。
 自分の胸を見ると炎が一回り小さくなったような気がする。
 他人をどうしようもない九死から掬い上げ、一生へと路線を戻す。この尋常ではないくらいに湧き上がる噴火の如き達成感は常人には味わえないものだ、心の底からどうしようもないくらいの高揚感が波のように押し寄せていた。
 仕事終わりに俺は中央病院にいる彼女の元へと急いだ。
 病床の彼女はすっかり元気を無くしており、虚な目で窓の外の雪景色を眺めていたが、俺の声に反応すると曇りが綺麗さっぱり晴れた顔で出迎えてくれた。
 今日の仕事はどうだった。友人の一人がまたやらかして一緒に怒られた。飯はちゃんと食べろよ。最近雪が多いね。また通り魔が出たらしいから気をつけてね。など和気藹々と話をする。
 これも彼女を少しでも病状が進んでいるという事実から目を背ける現実逃避に過ぎないが、目の前の鈴を鳴らすように笑い、春の花の笑みを浮かべる顔を見るだけでも楽しんでくれていると苔すら生えなくないような荒地に恵みの雫が落ちるがごとく心が安らいだ。
 炎を分け与えるには少しタイミングが重要だったが、彼女がほんの少し窓の外へと視線を向けた瞬間に差し出した。
 俺の胸から生命力を宿した炎が彼女の胸へと向かう。これも今の所俺しか見えていない、誰にも共有できない自分だけの視覚が映し出す孤独に切り取られた光景だった。
 彼女の炎が一回り大きくなる。
 炎を分け与えた反動で力の大半が抜け出たように脱力してしまい、俺はぐらりとベッドの上に頭をおろした。
 その様子をみて俯いたまま見えることのない彼女の顔が青ざめたような声音が耳に飛び込んだ。
「ちょっと、大丈夫!?」
「へーき、へーき。立ちくらみを起こしただけさ」
「あんまり無理しないでよ、あれ?朝から調子悪かったのになんか抜け出たような気がする」
 大分心配を掛ける羽目になったがうまく行った。
 その日、2回も炎を分けたせいで炎もかなり小さくなっており鎮火寸前だったが、飯を食べてしっかりと睡眠を取ると少しだけ大きくなったような気がする。
 とはいえ、他人に与えるとなると症状にもよるのだろうが、炎の全容量が100だとして35〜75は持っていかれる計算だ。
 大分休んだにも関わらず6の容量までしか回復していなかった。
「どうだ?自分の炎を分けた感想は」
 気がつくと昨日の死神が横にいた。最初に会った頃とは打って変わって仮面は外しており、初めて見るこの世のものとは思えない横顔がそこにあった。薬物をキメたみたいに見開かれた黒い眼、頬から口紅を引いたような線が赤い亀裂のように見える。長い髪は仮面についていたももオールバックさせた針のような直毛は漆黒の闇を携えていた。
「ノウハウは掴めてきた」
 椅子に腰掛けて両手を強く握る。
「そうか、彼女が完全に元気になるまで使いこなせよ」
「言われなくても分かってる」
 死神は煙のように消えた。難病に犯された今、彼女を救えるのは俺しかいないのだから。

 数年後、俺は街の医者として働いていくことを決意し、不動産屋から一部屋借りてそこに住み込みで業務に勤しむようになった。
 彼女は俺に炎を与えられてからすっかり元気になり、今ではピクニックに2人で長時間出かけられるようになるまでになっていた。
 この何気ない時間が何よりも幸せだった、ここ数年間死んだように業務やバイトに勤しみ、幼い頃に両親が亡くなった彼女の医療費を稼いでたのだから、その反動で噛み締める甘味が強い。
 そういえばここが起点だったと思う。
 どこから噂を聞きつけたのかは知らないが、難病の自分の息子を救ってほしい。救ってくれたら大金を支払おうと破格の条件を提示してきた。
 連日の業務によって今の炎はすでに10くらいしか残されていない。救えなければ評判はガタ落ち。火の車状態の経営にもさらなる悪影響が出てくるだろう。けれどこの状態で譲渡してしまえば確実に俺は死に大金は現世においてくる羽目になるし、死神に頼み込んでもあの世に金銭の類は持っていけない。
 かなり悩み躊躇ったが、行動に移してからは早かった。
 他人の生命力、いわば炎を奪い取り、自分のキャンドルへと移す。
 雪の積もった通りを猫背にズボンのポケットに手を突っ込んで歩いているいかにも幸が薄く、暗そうな中肉中背の男、あの男で試運転しよう。
 やってみると今まで悩みこんだ時間はなんだったのかと思えるほど簡単だった、幻視する炎に向けて腕を伸ばし、鉤爪状に指を反らして、肘を起点に丸め込む。そうすると宿っていた炎はするりと抜け出てこちらへと素直に飛んでくる。そうして俺の炎と融合した瞬間、自分の体温とは思えないほどの高熱を発して脳みそが沸騰するような気分になったが、瞬時に冷えていった。
 目の前を歩いていた男は後ろから叩かれたみたいに前傾に倒れる。今の今まで生きていた人間だったのに炎を抜かれた現在、生気を感じさせないマネキンのようだ。首元に触れると外気と同じくらい冷たく、干潮の時間帯のように血の気が一気に引いた。
「殺した、俺が殺したのか…」
 両手を目の前に掲げ、唖然とする。
 冷や汗が止まると同時に確信する。この瞬間俺は、あいつと同じく命を手のひらで扱える死神と成ったのだ。
 目の前に広がるどうしようもない事実がそう告げていた。

 そこから俺の快進撃は始まった、難病を抱える人の元へと出向いては炎を分け与えて治す。炎が無くなってくればまた他人から補充するために夜な夜な出かける。
 同棲し始めた彼女には散歩に出掛けていると伝えているのだが、間接的に殺人を犯しているなど知る由もない。
 通りすがりの人の背後から手を翳し、引き寄せる動作をすれば糸に引っ張られるように炎は揺めきながら俺の胸へとやってきた。
 そして、炎を奪われた人はその場で崩れ去る。新聞は突然の心肺停止状態になる人々が相次いでいると報じて世間を騒がせていた。
 彼女が怖いねと怖気付いた声音でいったが、俺はそうだね、とどうでもいいように突っぱねていた。
 俺が間接的に殺しているのだから今更感傷的になることもない、羽虫の羽一枚千切って遊び、死ねば用済みと言わんばかりに去っていく子供のようにすでに過ぎたことに興味がなくなるほど俺の心は人から遠く離れてしまった。
 治す、奪う、取り込む。治す、奪う、取り込む。ただ繰り返す。
 治す、奪う、取り込む。治す、奪う、取り込む。
 繰り返していくうちに躊躇いがなくなっていく。凶悪犯が犯罪を犯して罪悪感に見舞われても重ねる罪とは反比例して何も感じることもなくなるように。
 人の灯火は俺の収入源そのものだ、いいぞ。もっとよこせ。
 それから数ヶ月、死神がまたやってきた。
「おい、俺の見てないところで好き勝手やってくれたじゃねぇか」
 晩酌中に水を差された気分になり、不機嫌に横目で睨みつけながら応答する。
「この力をくれたのはお前だろ?死神さん」
「やったのは俺自身だが、奪ってもいいとは言っていない。規約に反するのであれば返却してもらうぞ」
「今更はいどうぞって返すと思うか?ノウハウも完全に掴んでいる、こうなれば俺が使いこなす方がよほどいいとは思わないか?」

「はあ、こうなったら仕方がない。俺の信念に反するがこうしようか」
 すっ…。死神が同じように俺が人から炎を奪うのと同じ動作をしたところで、背筋に嫌なものが這いつくばる感覚に怖気が走る。
 彼女は両手にコップを持ったままリビングに倒れ込んだ。
「お、おい、何を…して…」
「命は命でしか贖えない。これは罰だ、じっくりと噛み締めろ」 
 死神が右手の親指と中指を弾いてパチンと鳴らす。その瞬間闇で上空から一瞬で塗りつぶされて視界が暗転した。
 気がつけば俺と彼女を中心に無数のキャンドルが暗い部屋の中にあった。小さな炎でも数に物を言わせればそれなりの明るさが闇を切り裂いている。ホール状の劇団を取り囲む様に観覧席に座る客たちが目がないというのにじっとこちらの演劇をみている気分になり気味が悪い。
「こいつらは全て人の寿命だ、ほんでこの一本がこの彼女のぶんさ」
 気づくと自分の胸に灯る炎が消えている、死神が持ってきたキャンドルの一部に含まれているのだろう。
「一回だけチャンスをやる。このキャンドルに移し替えられたら生かしてやる」
 手に取ったキャンドルに、小さくなりつつある炎を灯そうとしたが、中々綿糸に灯ってくれない。
 クソッ、なんでだ、なんでつかない。
 俺はアクセルを踏み込んだ思考回路をショート寸前までフル回転させてどうするべきなのかを思案した。
 焦りが募り、どんどんと扱いも杜撰になってしまう。手先がだんだんと震えてきた。
「ほらほらぁ、急げ急げ、急がないと女の命は消えちまうぞ」
「ああ、消える…やめてくれ、彼女だけは…」
 すると、ふっと、死神が息を吹きかけ、俺の顔は一気に正気が消えて死人のような顔面蒼白さだった。
 炎が消えたという事実を飲み込めず、死んだ魚の目をした俺に向けて死神は手に持ったキャンドルを視界に入れてきやがる。
「ざぁあんねぇん、この炎はあんたのだ。」
 死神が亀裂の走った笑みを浮かべた、口の上に三日月状に歪んだ対の目がある。
 眼窩にハマるその瞳は、全ての生命に平等に与えられる死を贈呈する死神の名に相応しい、邪悪な光を灯していた。
「ああ、あああああ…」
 全身の力が抜け落ちて、抜け殻と化した俺の体は力なく倒れ伏す。空気の抜け切った風船のような息しか吐けない俺とは対照的に、ゲラゲラゲラと死神が愉快そうに阿阿大笑している。それが俺の人生の最後を彩る大喝采がこれか、死ぬ直前まで拍手じゃなくて嘲笑が鼓膜を叩き続ける。
 掠れゆく断末魔は弱っていく彼女の隣で、風前の灯火の如く消えた。
 火が消えた後の煙すら出さずにひっそりと。

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