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新刊 小島ともゑ(著)『「中国ひとりぼっち」から引き揚げ船で日本へ  ~光を求めて、ケセラセラ~』3月19日発売!


今月、新刊を出します!


長年視能訓練士として働かれた小島ともゑさんが、ある視覚障害者に話を聞き、まとめられた記録。ひとこと、すごい本です。
 
商品説明の後で、本文の一部を公開します。

(商品説明)


台湾、満州、そして日本……満州で「異国の孤児」となり舞鶴に引き揚げてきた女性が、見た「戦中」、そして「戦後」……視能訓練士だった筆者だったからこそ聞き書きできた
歴史的に貴重な記録!


目の前で恐ろしい惨劇が起こっている。次々と人が亡くなっていく、それが戦争だ。(本文より)
 

(ここから、本文ためし読み!)


日本に帰る
 上海の近く・塘沽(トウコ)港に、與安丸が停泊していた。先生が船長に話をつけてきて、私は一人で船に乗った。與安丸は大きく3000人もの日本人が一緒に乗っていた(編者注:あまりに細かいことだが、與安丸に乗っていたのは約2000人。当時の新聞記事には、乗船者の中には女性や子どもも多かったとある)。私に日本の記憶は、ない。行李(こうり)に入れた荷物は、叔母さんのお骨と一緒に置いてきた。荷物もなく、日本語も忘れた私はどこに行くのだろう? 誰が私の事を見てくれるのだろう? 日本人は大人一人の持って帰れる金額が決まっていた。子供も一人いくらか持って帰れた。私の分は、船長に渡してあった。

 国共内戦により中断されていた引き揚げは、1953年3月23日に再開される。再開されて3回目の引き揚げ船に乗り、5月28日に舞鶴港に到着した。船の中では雑魚寝だった。お風呂に入ると、船が揺れるたびに湯船の湯がこぼれた。後で入ると、湯船のお湯はほとんどなくなっていた。大阪の笠原さんというおばさんが親切にしてくれた。ありがたいことだ。どこにでも親切な人はいるものだ。

 人の噂(うわさ)では食べるものがないと、赤ん坊を食べたという話を聞いた。人間の肉は酸味があるとか……本当だろうか? 

 後で残された資料を見た。舞鶴に残された引き揚げ船のリストによると、塘沽から舞鶴に入港した與安丸は1953年5月に1回、15日に入港している。私の記憶では28日だったのだが、間違いか? 
 舞鶴港の引き揚げは、昭和20年(1945年)に始まっている。舞鶴港では最後の昭和33年9月7日まで引き揚げ者を運行し、13年間で66万人を受け入れた。

 私は舞鶴に着いたとき、14歳であった。見えたのは日本の港、日本の山だ。船から降りると、DDT(かつて使われていた有機塩素系の殺虫剤)を頭から撒(ま) かれた。シラミがわいてひどい様子だったのだ。その後入浴した。日本語を忘れ日本に着いた。ここが日本だ。とりあえず日本に着いたのだ。故郷のある人、親戚のある人は、それぞれ汽車に乗り、帰っていった。行くところがない私は、舞鶴の施設「舞鶴引揚援護局」に入った。施設にいる間に、ボランティアの人から、あいうえおの平仮名を教えてもらった。これが日本語か~、漢字は少し分かるけど発音が違うな~と思っていた。

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出版社・読書日和 代表 福島
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