色も香りもとりどりに 〜友達の7割は外国籍~
私の通っていた小学校は特異な存在だ。生徒の7割以上が外国籍なのだ。面白い特色を紹介したい。
まず、校内放送が日本語とポルトガル語の2言語であることは当たり前だった。中学に進学してもそれは変わらず、他の小学校の生徒が驚いているのを見て、逆に自分たちが特殊な環境にいたことに気づかされた。
友人の苗字や名前が突然変わることがある。だが珍しくなく、私たちには普通のことだった。まぁ久しぶりに会った時に変わっていると「誰の名前だ!?」と混乱することはあった。
あと友達が宗教上の理由で食べられないものがあり、弁当を持参していた。給食が提供される日本の学校では珍しい光景だろうが、誰も不思議に思わず、互いの違いを尊重し合っていた。
今年、高校生になった。他の地区の人たちと生活するようになってから、こう言われたことがある。
「君の地域って、治安が悪いらしいよね? 外人が多いしさ。」
まるで異文化に触れること自体が危険だと言わんばかりの言葉に、私は心の底から驚き、悲しみ、そして怒りを覚えた。
まず「外人」と言うな。それは差別用語だ。そして国籍で人々を一括りにして評価するな。どの国にも善人・悪人はいるし、私の友達のように努力して環境に馴染もうとしている人もいる。治安が悪いと憶測で決めつけないでほしい。
育った環境では国籍や言語、肌の色、宗教が違っても、それはただの個性の一部であり、何ら怖がることではなかった。
だが、周囲の視点は違っていた。異文化を恐れ、未知のものに対して偏見を抱くことが、無知によるものだと感じた。
題名「色も香りもとりどりに」は、小学校の校歌の一部分だ。
広い野原に咲く花々は、お互いに「色や香り」を競い合いながらも共存して美しい景色を作り出す。しかし、小さな鉢に詰め込まれた花々は限られた環境の中で押し合い、互いの成長を妨げるようになる。偏見は、小さな鉢の花々のように互いを押し合い、発展を阻むものとなる。
多様な背景を持つ友人たちと過ごした日々が、今の私を形作っているのは間違いない。小学校のような環境があったからこそ、私は「違い」を恐れない。むしろ、それを楽しむ力を持つようになったのだ。
狭い鉢に閉じ込められていると感じる人、いや世界中の人へと、私は伝えたい。
世界は広く、多様な色と香りで満ちている。恐れずに、その野原へと踏み出してみてほしい。
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