中村哲著書 天、共に在りから 1
「これは、医師である私が、現地活動三十年を振り返り、どうしてアフガニスタンで活動を始めたのか、その後、どうして医療活動以上に、井戸を掘り、用水路を拓くことに力を傾け始めたのか、そのいきさつを紹介したものです。ーーーーーーーーーーーー猛威を振るっている大干魃は、今もなお、ほとんど知られていません。かつて自給自足の農業立国、国民の九割が農民・遊牧民といわれるアフガニスタンは、瀕死の状態なのです。この重大な出来事が知らされていなのか、その無関心自体に私たちの世界の病弊があるような気がします。
地球温暖化による砂漠化による砂漠化という現実に遭遇し、遠いアフガニスタンのかかえる問題が、実は戦争と平和と共に環境問題という、日本の私たちが共通する課題として浮き彫りにされたような気がします。」
著書 天、共に在りのはじめにに書かれた一節である。
中川哲先生は、福岡県生まれ。医師・pms(平和医療団・日本)総院長。84年にパキスタンのペシャワールに赴任。2000年からは、大干魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保のために井戸掘削と地下水路の復旧を行う。アジアのノーベル平和賞といわれるマグサイサイ賞受賞。著書に「ペシャワールにて」「国は国境を超えて」「医者 井戸を掘る」「医者、用水路を拓く」等々。2019年アフガニスタンナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力の銃撃を受け死去。
私は中村哲先生に憧れ、海外ボランティアに参加したり、医学部受験に挑戦した時期もある。まるで日本のシュバイツァーのような賢者的存在だ。
「天、共に在り」では、先生の30年間の軌跡を辿る旅といえるでしょう。
第一部 出会いの記憶では、中村哲先生の生い立ちや現在に至る経緯が書かれている。その中に、親戚だった詩人・火野葦平の事を紹介している。詳しいことは著書に譲るが、火野葦平は、戦時中、中国各地、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)へと報道班員として軍の指示で、それを読み物として出版している。戦後、左翼活動家や米軍占領軍は、この点を戦争協力者として指弾した。彼の青春は戦争に捧げ、その後変わり行く時代に翻弄された世代と言っても過言ではない。火野葦平の詩作に、若松港を見下ろす高塔山の頂の文学碑に刻まれた一句がある。
〈泥に汚れし背嚢に
さす一輪の菊の香りや
異国の道をゆく兵の
眼にしむ空の青の色〉
当時の日本人の大半が農民で、かすむ空と麦畑は春の風物だった。行軍中に至る所で目にする広大な天空と麦畑は、鮮やかに故郷を思い描かせたに違いない。中村哲先生も火野葦平の作品を子供の頃から読み、大きく影響されたという。