吉田松陰について
「死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い。 生きていることで大業の見込みがあれば、生きて成しとげれば良い。さあ、行け晋作!」
これは吉田松陰が処刑される前に、弟子の高杉晋作に送った手紙である。松陰は「桜田門外の変」の後、幕府に対する反発が強まる中で、彼の思想や行動が問題視されるようになり、最終的に1860年に処刑された。松陰は処刑前に「志を持って生きることの重要性」を強調し、彼の最後の言葉も志士たちへの激励のメッセージであった。
私が歴史に興味をもつ切っ掛けとなった吉田松陰。自分が日本人であること、歴史上このような偉人が存在していたことに感動したことは昔ながら鮮明に記憶している。
私が推しの吉田松陰のヤバさを3つ挙げてみようと思う。
1.感化力
→吉田松陰の凄さはやっぱり感化力だろう。それは松下村塾から大偉人続々と現れたことがある。初代総理大臣の伊藤博文。3代目総理大臣山県有朋。内務大臣品川弥二郎。明治維新の功労者久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作と数えればキリがない。しかし驚いたことに、松下村塾で教育していた期間は僅か1年あまりであった。吉田松陰の学問スタイルは常に教師と弟子という教授スタイルでなく、対話が基本であった。しかも身分や性別、年齢も関係なく、今からの日本についてどう思うか?という問答を投げかけていたという。これは本人が人間を信頼し、学友というスタンスをもっていたことを意味する。
2.行動力
→吉田松陰の有名なエピソードといえば、ペリー来航時、当時違法だった外国船に乗り込む行為を犯してしまったことだろう。欧米列強の脅威に危機感を覚えた吉田松陰は小さな筏で黒船に乗り込む。それは西洋の学問を学び日本国を守る為であった。しかし結局その目的は叶わず野山獄に投獄されてしまう。しかし獄中でありながら吉田松陰は、囚人や看守と学問をし、日本の未来について語り合っていたという。
3.詩人力
→吉田松陰は死ぬ瞬間まで詩人であった。数々の詩作をしているが、有名な詩は処刑される前に詠んだ詩作である。それは井伊直弼による安政の大獄の一環で行われた処刑である。
“身はたとえ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂”
この詩作は、弟子に伝わりこの想いを背負って、明治維新という大革命に向かって邁進していくことになる。まさに言霊である。
【吉田松陰(よしだ しょういん、1830年 - 1859年)は、幕末期の日本の思想家、教育者、革命家です。彼は長州藩の出身で、明治維新に大きな影響を与えた重要な人物の一人です。
松陰は、当初は学問に励み、特に儒学を学びましたが、後に西洋の科学や思想にも関心を持つようになりました。彼は、草野心平や江戸の志士たちと交流し、思想や政治についての討論を行いました
最も知られているのは、彼が創設した「松下村塾」です。この塾では、多くの若者たちが学び、後の明治維新の中心となる志士たちが育成されました。彼の教育方針は、自主的な学びや討論を重視し、政治的な意識を高めることにありました。
吉田松陰は、尊王攘夷の思想を支持し、幕府に対する反抗的な姿勢を持っていました。そのため、彼は捕らえられ、最終的に1859年に処刑されました。彼の思想や行動は、後の明治維新に大きな影響を与え、彼を尊敬する人々によって「松陰」と呼ばれ続けています。
松陰の遺した言葉や考え方は、今でも多くの人々に影響を与え続けています。彼の思索は、自由や独立、自主的な学びの重要性を教えてくれるものとなっています。】
・おまけエピソード
吉田松陰は、処刑される29歳まで独身だった。資料を調べる限り浮いた話しはなかったようである。それはまるで成人君主といえる存在で、宗教の教祖様の理想系とも思う。
しかし吉田松陰にも野山獄中に高須久子という当時37歳の女性と詩作を通じて交流はあったという。彼女は不遇の人生を背負った人で夫に先立たれたあと河原乞食の為に施しをしていた事が罪となり野山獄に入れられた不遇の人でだった。彼女は、吉田松陰が出獄する際ある詩をおくる。
“鴫(しぎ)立つてあと寂しさの夜明けかな。”
当時からすれば完全な恋文といえる詩。また久子は思いを句に
「箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん」
と詠み、松陰は
「一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす」
と二人の連句〈詩〉を遺しています。
真実の愛について、プラトニックについて、深く考えさせられるエピソードです。
よく吉田松陰は童貞で、恋愛音痴説を唱える人はいますが、魂の底から吉田松陰を愛した女性がいたことを知って欲しいと思います。