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女神の横顔

ある日のこと。

出張で滞在しているホテルと
自由の女神が隣接している事に気がついた。

展望スポットまで走って行きたいと思った。
僕はGoogleマップで基本情報を確認。

5km。徒歩で片道35分。往復で走れる距離だ。

世界を自由で照らす女神。

ニューヨークとニュージャージーの間に流れる
ハドソン川に浮かぶ小島にただ佇んでいる。

ニュージャージー側の川沿いに滞在していたので、
ハドソン川を下って、走っていく事にした。

東海岸の空はカラッと快晴。
程よい寒さも相まってランニング日和。

NYの高層ビルが空の光を反射して
サファイアのような輝きを見せる。

濃紺の色を交えた川も組み合わさることで
視界に広がるのは大人の蒼き絶景。

青が持つ本来の爽やかさとは異なる
重厚感が僕の瞳の自由を奪う。

時に奪われて、また自由を取り返して
前方不注意と咎められないように
歩行者の隙間をするりと走り抜ける。

川沿いのランニングコースの終着点に行き着く。

女神のトゲトゲ帽子と横顔を覗く事が出来た。

行き止まりの50m先。

川を挟んで、また街があった。

どうにかして渡る必要がありそうだ。

左は川。右には道。

たった、50m。右に走れば、橋があるのだろう。

徒歩で35分なのだから。

女神に横目を傾けながら走り続ける。

道の高低差によって
横顔は消えたりまた現れたり。

道の流れによっては
小顔になっていったり。

時間を忘れて走っていると
息が少し切れ始める。

そして、疑問が頭をよぎる。

あれ?本来ならば到着しているはずじゃ?

流石に頭が冷えたか右に進んだ道を
左にゆっくりと歩いていった。

看板がある。フェリーだ。

嫌な予感がする。Googleマップを恐る恐る開く。

フェリー込みでの35分か。

右手の橋は遠過ぎた。いつくるんだフェリー。

一時間後ね。そもそもApple Payは使えますか?

僕は女神を一番近くで拝めるだろう川辺に戻る。

女神は大きく見えるがビルが邪魔して
見えたのは帽子と口角より上の横顔だけ。

都合が良いことに少し大きめの岩があった。

僕はその上に立って、背伸び。

かろうじて見える横顔目掛けて、心で叫ぶ。

「帰宅します!楽しい時間をありがとう!」

口元が見えようが、女神はそっぽを向いていた。

僕は満面の笑みでそれを見つめていた。


僕のランニングにおける楽しみは
決めた時間、決めた速度、決めた距離を
走るのではなく、好奇心を満たす事。

女神に魅了されて、色んな道を走って
その先々で新しい街並みに触れて
心をゆらめかせるのが好き。

女神には届かなかった。

だが、十分。

ワクワクして走った日の
帰り道ほど満たされる時間はない。

疲れた体を癒して、また朝になると
玄関の先から今日を走っていくのだ。


人生は縦横のグラフで表される事が多い。

左から右に動くのは時間である。
時間は残酷で右から左に戻る事は出来ない。
身体的にも社会的にも一部選択は
制限をされていくのは事実。

その横からの直線的な見え方が人に
窮屈さを与えていると思っていた。

例えば、空から眺めてみてみたい。

中心は自分。

時間がどれだけ過ぎても
自分が存在している事に変わりはなく
10代、20代、30代、40代、50代と
横軸で区切ることに意味はあるのだろうか。

自由を奪ってはなかろうか。

方角によっては
仕事やプライベートの土地があって。

中心から走った道をベースに描いてみる。

時に沢山走って長く描かれた線があって
その道を戻ってまた違う方向に描かれていて。

時には誰かの道と交差したり繋がったり。

ここは行き止まり?
少し戻って迂回。

とてもしんどい。
中心に戻って、じっとしよう。

生きている以上
帰る場所はあるのだから。
また出発する場所はあるのだから。

空から見た方が自由だ。

人が土に還る時
今まで走った道の軌跡が
メジャーのように収縮して
走馬灯のように流れて来たとして。

あの日の帰り道よう、満足していたいものだ。
女神の横顔しか見れなかったとしても。



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