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ゆっくり行こう

久しぶりの暖かい日。
(こんな日に、教室で勉強なんてもったいないよなぁ…)
なんて思いながら、公園で小学3年生の長女とお昼ごはんを食べている。

冬休み明け。
前日の昼までは何も言っていなかったのに、夕方になってなんとなく不調を訴えてきた。学校行かないかもな…という予感。案の定、翌朝起こしに行くと行きたくないと訴える。初日だからと少し粘ってみると、泣き叫んで抵抗した。
こんな調子で無理やり行ったところで、何も身に付かないし、楽しくもない。「お休みにしよう」と言うと、安心したのか、いつもの笑顔が戻ってくる。
「明日は行く」と言っていたが、翌日「鼻水が出る」と言って結局欠席。幸い大したことはなく、すぐに収まった。

翌日は、彼女自身も(行かなくては…)という気持ちがあったのか、朝から何も言わない。私も何も言わず、”行く”前提で朝のルーティンをこなす。
通学班で登校する次女を送りだし、さて車で連れて行こうかとすると、泣き出した。しかし泣きじゃくりながらも、靴を履き、車へと向かっている。
「そんなに嫌なら…」という言葉が喉元まで出ていたが、せっかく行こうとしているのを止めるのもなんだか違う気がして、ゆっくりと乗り込む娘を見守る。
学校に着いても泣いている。(行こうとしただけえらいな。頑張っているな)と思い、「せっかくここまで来たから、先生とお友だちに挨拶してから帰ろう」と提案。教室に行き、冬休みに持って帰っていた諸々を片付け、宿題を提出し、先生と少し話して帰宅した。

今日はそもそも、いろいろと片づけたい外出の用事をこなす予定でいた。娘も連れ出し、用事を済ませつつ、お昼に焼きそばなどを買い込み、公園でレジャーシートを敷いてランチ。日差しが暖かく、少し冷たい風が気持ちいい。二人でおいしい、おいしいね、と言って食べ、食後には持ってきていたフリスビーで体を動かした。散歩中の子犬が私たちに寄ってきた。かわいかった。ゆったりした気分を味わう。


子どもの気持ちに寄り添いたいと思う。だけど、過保護なのかもしれない。自分の中で”寄り添い”と”過保護”の線引きができなくて、正解がなくてもどかしい。今、学校という”嫌なこと”を避けていたら、大人になって困るのは彼女自身なのではないか。そんな不安もよぎる。
そんな時、ふと目にしたフリーペーパーの中の子育て相談の回答に、こんな言葉があった。

大人になれば嫌なこともしなくてはならない時期が必ず来ます。今はそうではありません。お子さんは、「自分の気持ちを受け止めてくれる大人がいる」という安心感の中で過ごしていると思ってください。

(あぁ、まだこのままでいいよな。私間違ってないよね)
と、思えた。

将来はもちろん心配だけれど、大切な今の時期に無理をさせるのは、娘にとっても私にとってもストレスだ。彼女にとって今大切なことは、安心できる場所があること。うまく言葉にできない彼女の気持ちを尊重すること。そんな安心感が大前提としてあってこそ、かえって大人になってから柔軟に物事に取り組めるのではないか。
甘いのかもしれない。ただの希望的観測かもしれない。だけど、未来はどんなに目を凝らしても見ることはできない。

学校で経験できることは多い。が、全てではない。行かないなら、その分できるだけ心が豊かになれる経験を一緒にしていきたい。大袈裟に考えなくてもいい。天気のいい日に、公園で自然を感じながらランチするような、そんな些細な幸せを、ゆっくりと積み重ねて行けたらいい。

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