見出し画像

『ひらがなの世界』 文字が生む美意識 石川九楊

   

 ひとり遅れの読書みち   第41回

     本書は、漢字で書かれた万葉歌からいかにひらがな(女手)が誕生してきたか、その成立過程を明らかにするともに、女手書記の作品がいかに美しく見事かを描く。万葉仮名(漢字)が生まれ、その漢字では言い表せないことを我が国の言葉で書き表したいという思いが熟して、ひらがなは生まれた。9世紀終わりから10世紀初頭のこと。ひらがなの美を生み出す高度なワザは衝撃的だ。

     著者は、ひらがなによる美しさを説明するうえで「掛筆」という言葉を使う。文字と文字とが結合する際に「前字の最終筆が次の字の第1筆を兼ねる」ことで、これが「掛字」を生み、「掛詞」を生む「原動力」となったと指摘する。さらに「掛字」が「書かれるべき文字を隠し、消し、また書かれる必要のない文字を次々と出現させる」という表現を生んでいったという。
     かな書の最高峰とされる「寸松庵色紙」「高野切」などの作品には、従来多くの誤字脱字が存在すると言われてきた。だが、著者はそこにこそ作品の美が隠されていると強調し、その「手品」のようなワザを明らかにする。

     「連綿」(文字と文字と続けて書くこと)や「墨継ぎ」(筆に墨を含ませて文字を書くと次第に墨が枯れていくので継ぎ足す)の様子も評価する対象だが、それだけではない。
     歌の意味を深く理解したうえで文字を書く。秋風に吹かれる歌では吹かれている文字が書かれ、鳥が枝を飛び移るような文字も描かれる。霧が深まれば文字は隠され、草に虫が泣けばその泣く情景も描かれる。男女がむつみ合うような文字も書かれている。

     例えば、「寸松庵色紙」の次の名品では「掛字」を説明する。
「梅が香を袖に移してとめたらば春はすぐともかたみならまし 」(古今和歌集巻1 春歌上 46)  色紙では、次のように書かれている。
     んめのか をそてに
     うつしてとめたら
         はるはすくと
     もかたみなら  ま
                                し
     2行目の「うつしてとめたら」の次に、従来「は」を書き落としたとされてきた。しかし著者によると、間違いなく「とめたらば」と書かれている。欠字と見える「は」は3行目の「はるは」の最初の文字「は」と二重に読むのだという。「掛字」が用いられた。

「木伝へばおのが羽風に散る花を 誰におほせてここら鳴くらむ」(巻2 春歌下109)の歌の最初の行
     こつたへはおのかは せ
「はかぜ」とあるべきが、「か」が欠けている。ここでは「おのかは」と進んで、次に返り点が打たれているかのように上の「か」に戻る。枝を鶯が飛び移る歌の意味を投影して、「おのかは」ときて「ピョン」と前字の「か」に飛び移るように書かれたという。「おのかは」の「は(者)」の最終画は、やや右下に細く伸びて消えるように終わっている。「か」が右側に羽風で吹き飛ばされて見えなくなったとも見える。

     文字が消えてみえるのは、次の歌にもうかがえる。「誰がための錦なればか 秋霧の佐保の山ベをたちかくすらむ」(巻5 秋歌下 265)その一部を示すと
          きりの さ
    の 山 へ を   
と「きりのさほ」とあるべきが「きりのさ」で終わって「ほ」が脱落していると考えられている。これは「霧」が「隠す」という歌のように「隠」している。「伏字」という表現だという。

     さらに「見せ消ち」の例には驚く。「秋の夜は露こそことにわびしけれ 草むらごとに虫のわぶれば」(巻4 秋歌上199)の歌。
     秋の夜は
     つゆこそ
        ことに
     わびしけれ
     くさむらこ
     とに つゆ
              むし
     
6行目の「つゆ」に二つの点が振られている。消去することを明示したもので、次の行に「むし」と書き改められている。これは「露に濡れて涙とともに鳴く虫のイメージ」を添えたものという。

     また著者は、「分かち書」による美についても詳しく述べる。例えば、「秋風の吹きあげにたてる白菊は  花かあらぬか波の寄するか」(巻5秋歌下272)
     すかはらの あそん
         秋か  せのふき
             あ    けにたて
                      るしら
                           きく
                                は
までが右側に納められている。しかも各行の最終筆(んきてらくは)が、まさに「秋風」が左から右に吹いているかのように書かれている。一方、残りの語句は、小さくて回転している。これは「花かあらぬか波の寄するか」という下の句に合わせて、波のように回転させているのだという。

     「本格的な日本のひらがな歌の出発点」だという『古今和歌集』が成立してから『新古今和歌集』が成立する平安時代末の藤原俊成の時代までが、かな書の「もっとも輝いた時代だった」と、著者は指摘している。本書は、絵画に優るとも劣らない書の美しさに目覚めさせてくれる。驚嘆すべき書だ。
(残念ながら、この画面では筆の細かい動きをうまく表すことはできません。実物をご覧いただければと思います)

(メモ)
ひらがなの世界
文字が生む美意識
石川九楊著
発行  岩波書店
2024年5月17日  第1刷発行

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?