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「生きてるみあるんじゃね?」

ライナスとライナスの毛布

ラジオで「人形と人間のあいだ」(こころをよむ)がはじまった。前回(13日)聞いてなかったと知るーーでも大丈夫。ほら、菊地浩平先生がダイジェストで教えてくれる。
「ウィニコット、移行対象、ライナスの毛布」とおさらいを聞いていて「断捨離流行」への違和感へつながった。

藁人形 人形劇 ひょっこりひょうたん島 着ぐるみ ふなっしー 澁澤龍彦 オリエント工業

タイトルは13日の 「聴き逃し」からいただいた。中学生に菊地先生が「ぬいぐるみは生きている?死んでいる?」とたずねたとき、グループで話し合ってる中から「生きているみあるんじゃね?」と聞こえてきた声。
あると思うな、わたしも。

ウィニコットの本、むかし読んだはずーー自分を育て直す・育ち直すためーーあった☺
「赤ちゃんは なぜなくの 子どもと家族まわりの世界(上)」(D.W.ウィニコット著/猪股丈二訳/星和書店)

ウィニコットの情緒発達理論は、(略)子ども(主体)と環境(対象)との関係を重視した理論(対象関係論)です。つまり乳幼児は生後六か月から八か月になると、母親という人物を対象として求めることができる段階に達して、初めて母と子という真の人間関係が成立し、これまでの母親の一部である乳房(部分対象)との関係から全体としての母親(全体対象)との関係へ移行し、この中間領域に移行対象(ハンカチや毛布の切れ端など)を用いる移行現象が見られるという概念です。そして赤ん坊の依存は母親に絶対的に依存している時期(この時期に赤ん坊は全能的に周囲を支配している)から、相対的に依存している時期へと移行します。赤ん坊の抱く錯覚とは、例えば客観的には赤ん坊の外の世界にある母親の乳房を、主観的には自分のものと思い込んでいるということです。現実には母親と乳児の二人ですが、一者の関係であり、赤ん坊が母親を自分とは別の一人の人として認識できるようになって、初めて二者関係が成立するのです。後年の人格発達にとって、この時期が最も重要な時期と考えられています。

「赤ちゃんは なぜなくの」訳者あとがき

「なにもしないではいられなくなっちゃったんだ」

「くまのプーさん」を例に菊地先生は話した。わたしはプーさんを読んだことないし、映画も見てない、あーあ。
「プー、ぼくはもう何もしないではいられなくなっちゃったんだ」
彼は学校へ行く年になったので「もうなにもしないではいられなくなっちゃったんだ」とプーさんに告げたのだった。
「何もしないでいる」時間がこの子にはあったということだね。そしていま「役に立つ」ことを主に学び、「役に立つ」状態でいることをほとんど常に求めてくる、けっこう偏って極端な価値観の世界が、この子を呼び出している。これは成長することだし、そっちの世界も大事。

菊地先生はこの別れの場面を、子どもが大人になるために移行対象・ぬいぐるみを捨てるとは見ない。だからウィニコットなんだ。ウィニコットはそんな短絡的な話してないよーって。
ウィニコットを踏まえて、プーさんとの距離がどれほど隔たったとしても、もう、この子の心の中にプーさんが存在するから、いつでも会える。移行対象との関係が成熟したんだって。

移行対象の説明でライナスとライナスの毛布が出た。
ライナスの毛布はライナスにとっては代替品なんてない、唯一無二の毛布だ(主観)。ライナス以外の人にとっては毛布は毛布(客観)。
母親と未分化の乳幼児が母親と分化する過程は努力が必要だって。
個人的中間領域で自分が適当だと思う距離感で移行対象と付き合えばいいんだから、無理矢理捨てなくてもいいんじゃないって。

ライナスは移行対象を引きずってどこへでも連れ歩く。
わたしは本、気に入った絵、写真の切れ端、メモ、メモ、メモ、小さな人形、色えんぴつ、カラーペン、どうしていいかわからなくて取りあえず置いてたまった紙のもの、ごちゃごちゃがちゃがちゃの中でくらしてる。(「脳が壊れた」鈴木大介著、やっと読んだ。やはり自分のことだった。)
食べ物のごみはないけど、わたし以外の人にとってはごみなんだろうなーと思う。けど、わたしはこのものたちを皮膚お守りでもあると感じている。
皮膚だから、この部分は要らないって、ひっぺがすわけがない。

⇧プーさんとロビンの最後の会話

生涯人は中間領域で遊ぶんじゃないか? 移行対象と交流するよな。成熟って、人間のばあい、「成熟しました、終わり!」ではないだろう。生きてる間つづいてほしい過程だろう。ぬいぐるみすぱっと捨てました。そんなのあったことも知りませんよ、という人はたぶん実在しないと思うけど、いたらどんな人か想像してみる。
針金ーー厚みと深みのある人間が浮かばない。
プーさんの本ではプーさんとロビンの最後の会話が綴られたけど、それからの、書かれていない会話がどれほどあったことか。

「なにもしないでいる世界」を存分に生きることを、いまの時代は子どもたちに許さない。
「役に立つことで子どもの時間を埋めつくさなければ!」強迫の親たち。
だけど、子どもの宝を大人が強奪する説明を「そんな時代」にして澄ましていていいわけがない。
いま生きてる時代の制約を受けない人はいない。
だけどーーーーーだけど るるるる るるる るるるる~♪


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