まぶいぐみ
まぶいって、びっくりすると落ちることがあるという。
あるんだと思う、実際。
落ちたら拾って、戻す。籠める。まぶいぐみ。その作法はどんなか。
若いころ、まぶいを一緒に拾いに行ってくれないか、とわたしに頼んだ人がいた。名は覚えていない。笑い顔と、さみしそうなお顔は浮かぶ。
その人を好ましく感じていた。
まぶいを落としたという場所は、うちから遠くないと思われたが、面倒なので断った。
まぶいを拾いたい切実さが、わかっていなかった。
ここ数ヵ月、何かとこの事が思い出されては考えている。こころに少しかげがさす。
12歳から13歳くらいのころ、わたしは自分を嫌いになったような気がする。自分はだめだ、罪人、有罪、そうした負の感情が極まって、自分を嫌い、憎む人になったようだ。それからは、わたしに対して肯定的な人に関心が薄くなった。変なの、と思ったし、ばあいによってはバカにしたし、憎しみさえも感じた。
わたしは本当に病気だった、こつこつこつこつ自己破壊に励む気違いだった。
それでいて、世界は逆さまだ! みんな狂ってる!って怒ってもいたんだから。
わたしの対人関係の型の一つに【いきなりバカに気にいられて、すぐに嫌われる】があった。男女関係なく、誰かがわたしのことを「すてき!」ってくっついてきたかと思ったら、去る。理由は、退屈、面倒、煩わしい、軽蔑、嫌い──とにかく要らない人、お払い箱。
自分を嫌う相手にわたしは執着したことが多々あった。この人に「いい」と思ってもらえなかったら、生きられない!という思いに苛まれてのたうち回るような苦しみを味わった。行動力はないから、ひたすら内にこもって。
母親との関係を「再演」「再再演」しているなんて、当時は知るよしもなく。
母に見捨てられたら子は生きられない、必死でしがみつく。
生死に関わるように苦しくもなろう、「再演」だって当人は思ってないんだから。
わたしを嫌う人に、自分の価値を認めてもらわないことには生きられないと信じていた。わたしを嫌う人に好かれるどうかが「命に関わる重大事」と信じていた。
自分で自分を嫌っていたから。誰よりも誰よりも自分が、自分を嫌っていた、自分を蔑んでいた。死ねばいいのにと呪っていた。
あしたは冬至だ。うれしい。
自分に、「死ねばいいのに」って思ってたころ、太陽は恐ろしい敵だった。
自分の汚い醜いもの全部曝される。太陽が情け容赦なく暴く。
本当に、恐かったんだよ、太陽。
太陽、わたしを否定して去った人が言ったね、自分はメッキなんだと。
そして、太陽は眩しいと。
太陽を、また好きになったのはいつごろだろう?
背中に太陽があったかかった。
あったかいなーって、うれしかった。ありがたかった。