「ククルスドアンの島」ア・バオア・クー戦ラストに繋がる、無かったことにしてはいけない物語

「ククルス・ドアンの島」を観た。
 アニメーションや、モビルスーツ戦の迫力など、一般的な話題は避けてラストシーンについてだけ考える。

「あなたに染みついた戦争の匂いが、戦いを引き寄せる」そう言ってアムロはドアンのザクを海中に葬る。TV版でも今作でも、正直なところ腑に落ちなかったこのシーンの意味は何だろうか。

「武器があるから戦争が起きるんだ」という政治的なメッセージともとれる。だが、実際には武器がないと思われたからこそ、ウクライナという国は2022年にロシアの侵略を受けた。それを我々はこの目で見ている。このメッセージには、今日的にまったく意味が無い。

 ここでは、制作者の政治的な意図とは別に、物語としてこの終幕を考察してみたい。

 戦争の匂いがザクであり、それがドアンに染みついている。ドアンにとってザクは、ただの兵器ではない。「ザクが無ければ自分自身のことを考えられない」というくらいに、彼はザクに依存していたのではないだろうか。

 劇中でわかる情報は、サザンクロス隊の高機動型ザクを向こうに回して、ろくな整備も補給も受けていないただのザクが、ヒートホーク一本を担いで互角以上に渡り合えたこと。その実践慣れした実力。そして、かつては、赤い彗星と並び称されるほどの戦果をあげていたことだ。

 もし彼に、ジオン軍が、そしてザクが無かったら、彼は平凡な男性として平凡に生きたのだろう。そんな空っぽの男の前で、しかし、一年戦争は始まり、彼は自分の生きる道を見いだした。
 モビルスーツパイロット。彼はこの道の天才だったのだ。才能の自覚、そして、上がり行く戦果。それに応じて上昇する軍隊での地位。
 もはや彼は、ザクなしには自分の生活も、自分の人生も、自分自身すら考えることができなかったのではないだろうか。ククルス・ドアンという男は、ザクとともに立ったのだ。

 戦災孤児を見て、ドアンはすべてを捨てようと思った。しかし、どうしても、ザクを手放すことができなかったのは、そのためだ。

「まだ激しい戦争は続く。子供たちを守るためにザクは必要だ」
 そう彼は考えたのかも知れない。だが、それは言い訳だ。
 たくさんの庇護対象を抱え、彼らを愛し励まし護り育てて行くことは並大抵のことではない。ザクを手放せなかったのは、それがドアンの精神的な支柱であったからかもしれない。

 自分を誤魔化しきってしまえれば、あとはザクを中心に考えていける。
 ミサイル基地を根城にしたのは、そもそもザクの動力や武装を維持し、修理して運用するためだろう。

 しかしそこは、火山灰が堆積した黒い土地。豊かな緑も無く、飲み水も乏しい。そんな場所に、食べ盛りの子供を十人以上かかえて、自給自足ができるわけもない。先の推察が正しければ、ドアンには別に農業の才能があったわけでもないだろう。ましてコロニー生まれのジオン軍人だ。地球の気候に精通しているわけがない。ただ、子供たちの前で年長の保護者として振る舞っているだけで、畑作りも最初の年から大成功とはいかないだろう。

 しかし劇中では、新鮮な野菜やパンが食卓に上っている。舞台は一年戦争だ。ドアンが伝説的な戦果を上げ、戦火に子らを目撃し、ジオン軍を抜けて子供たちとこの島に移住してから、どう長くとも半年も経過していないはずだ。小麦の自給自足などあり得ない。となれば、この小麦は基地の備蓄食料か、あるいは基地の備品を売り払って買い求めたものだろう。

 では畑は何か。それは子供達に仕事を与えるためだ。親を無くし、絶望した子供達が、何も無いこの島で、ただ空を星を見るだけの生活を送ることに、ドアンは耐えられなかったのだ。
 基地の備品を売れば、終戦まで楽に生きては行ける。だが、子供の目は、そしてドアン自身の目も、金に頼っただけの暮らしでは生き返らないのだ。(あと、子供は暇だとろくなことをしない)
 たぶんヤギも買ってきたものだろう。人慣れしていて、人間をなめきっている。

 ここで終戦まで。
 虫のいいことを考えていたドアンの島に、アムロが来た。
 ドアンと、アムロの人生が、ここで交差する。

 アムロ側から見てみよう。
 このときのアムロは、まだ16歳の少年だ。島の子供たちの中でも、カーラやマルコスと同年代。彼らの中に、生活を通じて溶け込んでいくことができつつあった。
 彼がここに来た物語上の意味は何か。
 すでに幾多の戦闘をくぐり抜け、戦士に変貌しつつあるアムロ自身にとって、引き返せるかどうかの、最後の選択肢がここだったと考える。

 テレビ版機動戦士ガンダムでは、この後、アムロは超人的に強くなっていく。ただしそれは、彼の人間性と引き換えだった。
 ろくに休めず鬱屈し、ブライトにぶたれたときには、ガンダムを飛翔させてトップ隊を壊滅させた。母と決別した直後には、イセリナのガウを一方的に撃墜した。あまりに人間性を剥奪された生活が続いて、12話では白目になってベッドでうずくまっている。しかし、その後はあのランバラルと互角以上に戦い、最終的にモビルスーツ戦で勝利している。「ククルスドアンの島」よりずっと先の話だが、サイド6で、再会した父親を切り捨てた直後には、アムロは12機のドムを実に3分で壊滅させた。
 彼は人間性を失うごとに、超人的な戦士になっていく。
 だが、ここでなら、まだ人間らしい生活に戻れるのだ。
 ガンダムもいい感じに隠されているし、目の前には脱走のお手本がいる。この島で、すっとぼけて、機械いじりの得意な少年として、慕われるままに暮らしていけばいいのだ。

 ドアンとアムロは、実は同じ存在だ。
 ドアンもまた、アムロがこれから歩むような超人的な戦闘能力者だった。サザンクロス隊を率いて、赤い彗星に迫る戦果を上げていた。そして、戦争の悲惨さを直視して脱走していても、それでも呪いのようにザクを手放せない。

 アムロもまた、一年戦争を英雄的に戦い抜く。彼の人生はこの戦争で決定的に変わってしまった。戦後は軟禁されるが、それでもモビルスーツパイロットとしてしか彼は生きられなかった。アムロにしてみても、ガンダムは呪いなのだ。

 二人とも、それを手放せない。
 このまま進めば、アムロもまた、ククルス・ドアンのようになる。
 アムロは、それを直観したのではないか。
 後に、彼自身が「人はいつか時間すら支配する」と言っていたように、無意識的にでも、アムロは未来を予見したのかもしれない。

「ククルス・ドアンの島」ラストシーンで、アムロは、ドアンの呪いであるザクを投げ捨てる。
 このときすでに、自分とガンダムをめぐる呪いの決着点を、見ていたのかも知れない。

 一年戦争の終わりに、アムロはガンダムを捨て、コアファイターすら乗り捨てて、仲間達の元に戻っている。

 ドアンと子供達のような。
 そして、一年戦争を戦い抜いたホワイトベースのクルー達との絆のような。
 そんな暖かい人間のつながり。
 そこに、戦闘の匂いがあってはいけない。
 そんな思想が、ククルスドアンの島で、アムロに生まれていたのだ。

 サイドセブンの暗い部屋で、一人でうずくまって自分からは交流せず、機械いじりをしていた少年が、ア・バオア・クー戦の最後に、仲間を得てそこに帰還していく。ガンダムが成長の物語であるとすれば、アムロのこの変化こそが、成長だ。

 戦争から逃げて、子供を守りながらも、ザクを捨てられなかったドアン。
 その呪いを清算したアムロが、戦争を最後まで戦ってから、仲間の元へ戻る前に、ガンダムを捨てる。
 そんな美しい対比。

 そこに私は、この物語のラストシーンの意味を見る。
 この島での経験があったから、彼は最後に「帰れるところがある」と思えたのだ。

「ククルス・ドアンの島」は、無かったことにしてよい物語ではない。
 アムロにとって、ククルス・ドアンとの出会いは、彼の最後の姿へ導く、その大きな一歩になっていると、私は思うのだ。


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