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適正な距離を測って生きる

最近ようやく物事が動き始めてきて、どうにかこうにか息ができるようになった。通常、意識しなくても呼吸してるわけだけど、この直近1か月間、私は呼吸しようと思わなかったら窒息する、みたいな状態だった。そう思ったのは、空気が吸えるようになってからだけど。こんなに呼吸って楽にできるのか。それはもう少し大きく捉えても意味は変わらない。こんなに生きるのって楽だったのか。ただ、毎日を生きるだけであんなにも苦しい。その苦しみを知っているから、今を楽に感じているだけで、きっとこれが普通の人もいるのだろう。うらやましいとは思わない。乗り越えた(実際はまだ乗り越えようとしている期間)体で振り返れば、経験になってしまえばその経験に無駄はないよね、と言うことができる。真っ只中の自分は死にそうだったくせに、だ。自分も人間だな、人間だったな。喉元過ぎればなんとやら。過ぎ去ったことを昨日のように思い出すようでは生きにくい。忘れるからいいんだよ、という気持ちが身に染みてわかるようになってきた。

面白いことも、面白くないことも同じくらい起こっているらしい世界で、なぜ人は面白くないことばかり覚えているのだろうか。①楽しかった、嬉しかった、気持ちよかった、という気持ちに限界はないから、そして、②痛い、つらい、悲しい、という気持ちはより深く残るから、かなあと思っている。後者の要因が圧倒的に大きい気がするけれど、前者もあると思う。あくまで私の場合は、である。これまでの人生で一番うれしかったことは?と聞かれると、大会で優勝した時と、推しのカレンダー発売イベントで1/100のプレゼント企画に当たったときが出てくる。前者は中学2年の記憶で、後者は4か月前の記憶だ。なんでいきなりこんなことを書いているかというと、努力が報われた→嬉しい、と、運に恵まれた→嬉しい、があるということを意識しておきたいな、と思ったからだ。神頼みだったり巡りあわせがもたらす結果を、自分の努力不足にしては意味がないし、努力不足なことを運がなかった…と言っては、ね?と最近思うようになった。

そんな当たり前な!そう、すごく当たり前。でもこんなことを書いて残したい、確認しなきゃと思うくらい、直近1か月の私は物事との距離がとれていなかった。何事にも適切な距離がある。世界が狭くなっているとき、それには気づけないことがほとんどだから。意識的に距離をとっていきたい。そう、意識的に。そんな一週間だった。


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