その道、未だ途中
※このnoteに双騎の感想は含まれない。
随分久しぶりにnoteへ帰ってきた。新型コロナウイルス感染症の感染拡大により厳しい規制があったあの頃、たまる一方だったエネルギーを発散したくてここにぶつぶつと綴っていたのだと思う。文字で発散できるのだからなかなか安上がりでいい。エッセイとはいえ、文章を綴る練習にもなった。結果的にいい趣味を得た、と言えるだろう。その一方で、文章を書くこと、発信することによる喜びまで知ってしまったがゆえに、ここに投稿しない期間もなにかしら書いていた。
院生としてもいろんな文章を書いた。レポート、報告書、意見文……もちろん論文。論文は今でも難しいが、気づいたら今年自分はD3になるという。noteを書き始めた頃はM1だったというのに。恐ろしい。指導教員には学会誌に投稿する論文ではなく、学位取得のための論文を書けと何度も言われている。指導教員のいうことはもっともだ。しかし、博士号を取得するための論文と投稿論文は、文字数や構成のほかに何が違うのかいまいちわかっていない。ダメ院生ここに極まれり。どうしたらいいのかなあとぼんやり考えるうちに年を越してしまったので、今年はまず論文の書き方の本を買い足そうと思う。今年と言ってももう9日が過ぎた。1月はあと3分の2しかない。時の流れは常にはやすぎる。
そんな昨年末のことだ。ダメ院生なのは一旦棚に置いて、私は1ファンとしてミュージカル刀剣乱舞の新作公演、千子村正蜻蛉切双騎出陣をとても楽しみにしていた。自力ではチケットを当てられなかったが、友人の同行者として観劇のチャンスを得た(友人には頭が上がらない)。構成は40分のミュージカル、40分のライブ。休憩の20分を足しても公演時間は2時間を超えない。チケット代は16,000円(+手数料、先行料etc…)。つまり、1分160円である。ふたりで100分、しかもIHIというだけで大変なのは百も承知であるが、100分16,000円はやはりすごい。私は本州の端っこに住んでいるから、移動費を足さねばならない。1回の公演を観るのにかかる金額は最低でも5万円である。観に行かないという選択肢はなかった。が、満足させてくれるんだろうなぁ?!と思ったのも事実だ。
全くの杞憂だった。圧巻の演技とパフォーマンス。圧倒的な美しさでしか満たされない心の奥のスペースが埋まっていく感覚に震えた。そうだ、私はずっとこれが観たかったんだ。ずっとアンケートに書いてよかった。夢がかなった、と思った。
そして、始まってしまったからには必ず訪れる終わりを勝手に悲しみ、それでいて千秋楽までなにもありませんようにと祈る。この作品が、この時間が、素晴らしいまま終わりますようにと願う。矛盾の中で私は舞台で紡がれる物語に感謝した。
推しはいつも完璧だった。初日から完璧だったことがわかる。日々『成長』ではない。日々改善…、良いものをさらに良くしているのだと思った。
プロだ。まごうことなきプロだ。
プロはすごい。本当にすごい。プロとは何か、定義を定めなければいけないような気もするが、ここでは割愛する。が、まあ簡単に、ここでは「それで飯を食っている人」としよう。何がすごいかなんて私にはわからない。ただ、そのひと声が、一挙一動が、私の心を打つのだ。そして雄弁に語る。自分は蜻蛉切である、ワタシは千子村正である、と。
その身体はspiさんであり、太田基裕さんであるなんて野暮なことを一時も感じさせない。歌い舞い踊る二振りがいるのである。
昨年の最後に思ったことが「プロってすごい」だった。そして、プロはすごいんだという言い返せないほどの納得が私を研究者というジャンル違いのプロになろうとする道を支えてくれた。
一昨年の12月、もうやめようか、やめるなら今が最後だというタイミングで参加したのはspiさんのカレイベだった。もともと行く予定だったから行っただけ。カレンダーをお渡ししてもらえる!距離が近い!やったね!くらいのものだった。
もちろんしっかりお渡ししてもらったあと、私は彼の歌を聞いた。そこでこれまでとは違う感覚を得たのだ。プロなんだ、この人は、と。もうこんなにすごいのに、もっと上を目指しているのだという事実がどしーんと体全体にのしかかった。それは実際には音圧というか音の響きであったが、私はそこで指導教員とspiさんが重なった。ジャンルは違えどプロなのだこの2人は。
私もプロになりたい。
最低限の努力でプロになれるほど私はよくできた院生じゃない。怒られるのは嫌だ。でも、プロになれないのはもっと嫌だ。何者かになって、応援したい。彼に情緒はふりまわされるだろうが、ひとりの人間として応援したい。そう思った。
それから一年。私はまだ院生だ。何者でもない。周りが昇進だの転勤だの転職だのと言っているなかで、まだ仕事をしていない。再び私はそのような目に怯えていた。が、双騎をみたあと、ふと思った。目の前の霧がさらりと消えていくように、自然と心の中に降ってきた。
わたしはまだ何者でもないけれど、何者かになろうとしている人間だ。それを恥じることはない。
この勉強と研究の果てに、私は何者かになるだろう。二振りはその道を歩き終えたが、私はまだ道半ば。しかし、あと一年と少しを私も歩ききって見せる。
一年と少し後に、何者かになった私で会いに行く。
そう思って目下の課題に取り組んでいるひとりの院生がここにひとり。