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戦後日本とサブカルと正義の話

戦後国産のサブカルやエンタメの時代の流れを辿ると正義とはなんぞや、という問いかけが常にあったように思います。
そもそも手塚治の漫画自体が子供向けに書かれているのに主人公が自己犠牲的に死んでしまったり、およそ子供向けの漫画文化に、大人の理屈を混ぜることから来る歪み…のようなものからスタートしている気がします。

怪獣映画から特撮ヒーローへ受け継がれたもの

ゴジラという人間の手によって生み出され強化されたモンスターが暴れまわる「怪獣映画」の流れから派生したウルトラマンも、しばしば組織のエゴから怪獣を生んでしまったり人類の選択の過ちで他種族(他惑星含む)との軋轢に繋がったり。人間同士も組織の倫理で争うという場面が描かれていきます。

仮面ライダーでは現在に至るも怪人側とヒーローは生み出されたテクノロジーは同じで言わば同族殺しの話しとも言え、絶対的な正義はないため「人類の自由のために戦う」がアイデンティティとなっていると言われます(これを徹底して描くとデビルマンになる感じでしょうか…)

同時代にはアメリカもベトナム戦争の泥沼化で絶対的なヒーローは求められなくなり、アメリカンニューシネマなどでアンチヒーローが模索されていく形になります。矢吹ジョーなどもこの流れに連なるのかもしれません。

アンチヒーローの流れ

1970年代、時代劇では必殺シリーズが勃興。木枯らし紋次郎などが示したアウトローな主役像に加えて悪の上を行く悪を体現。主人公たちも殺しをやる限り「悪」であり、そのため事前の調査や仕事人(仕置人)同士の満場一致といった前提の上に「金を貰って始末をつける」という行為が外せないものとして描かれる形にもなっています。

刑事ドラマではその昔は主役は犯人で、刑事側にスポットが当たることは珍しいと言われていたようですが、この流れを決定的に変えたのが太陽にほえろ。
やがてハードボイルドにユーモアを混ぜる探偵物語、派手なカーチェイスを繰り広げる西部警察を経て、バブリーな服装と派手なアクション、集団刑事もののスタイルを混ぜたあぶない刑事に行きつくのですが、暴力団や後々は新興宗教や国際テロを相手にしていくあぶない刑事のTV第1シリーズのラストでは事件が起こる街そのものの悪意を体現したような実態を持たない犯人が(全貌はぼかされていますが)立ちふさがるというのが次の時代を予感させていたような気がします。

やがて組織の倫理(キャリア・ノンキャリア)を刑事ドラマに持ち込んだ踊る大走査線やミステリー仕立てで犯人を追っていたものが、超常的な力を扱う殺人犯の登場でサイコサスペンスの趣を放っていったケイゾク、事件を起こした犯人の背景にあるドラマを追うはぐれ刑事など、どんどんと混沌・複雑化する世の中の流れを汲んで刑事ドラマもその犯人像もどんどん形を変えていく事になります。

アニメでは踊る大差走査線に強い影響を与えた機動警察パトレイバーがこうした時代の流れをよく捉えていたようにも思います。劇場版では押井守お得意の都市論と並行して、コンピューターウィルスの脅威、戦後日本の体制そのものを揺るがすテロ犯が描かれますが、これらは結果的に後々の時代を予見していたような所が強くあり、その後の国際的なテロ事件やIT時代の脅威を分かりやすく形にしていた所もあります。
シンゴジラもまた、この流れに連なる怪獣映画となった気がします。組織同士の軋轢も含んだポリティカル・フィクション的側面。大きな歪みへいざなう犯罪に個性豊かな隊員達が立ち向かう様は、キャリアの壁を超えて共通の課題に立ち向かい、カタストロフィを防ぐシン・ゴジラの流れともリンクしていた気がします。このあたり、時代が一巡した感もありました。

時代によって変わる「正義」の概念

同じくロボットアニメではガンダムシリーズの変化も面白い。スポンサーの倫理を跳ね除け、製作者側がやりたい事をどんどん形にしていったものがリアルロボットアニメの火付け役ともなった所以ですが、その大人の論理が移民問題や環境問題、生き方の問題などまさに21世紀のこれから巻き起こってくる問題と結局リンクしているように感じられます。ニュータイプは便利なツールが増えるほどディスコミュニケーションが浮き彫りになる現在を、宇宙移民の対立とそれによる環境や食料の問題は80年代の冷戦当時よりも、21世紀以降まさに現実が抱える問題として、より浮き彫りになってきた問題です。

ニュータイプの問題はシャアの怨念として後々にフルフロンタルというキャラクターを生み出しましたが、クライマックスで描かれる虚無感の問題はもはや禅問答として(ガンダムの最後は毎回そうなのですがw)生き方の問題に触れているのも興味深いです。ガンダム=富野作品とみるとイデオンやターンエーは相互理解や生き方の問題を分かりやすく一歩先に進めた話だとも思います。

その後は所謂不殺主人公(キラ・ヤマトや緋村剣心)個々の正義が示され、それが相対化されたようなバトルロワイアル(本家バトルロワイアル、デスノート、仮面ライダー龍騎)主人公の内面に重きを置いたセカイ系(かのエヴァがそれの走りだとも言われますね)など、正義や敵の在り方、あるいはアイデンティティの拠り所も、やはり時代により世紀を跨いでからも変化し続けました。劇場型犯罪を目論むバトルロワイヤル型の天才型の犯人が、はぐれ刑事的な市井の市民の善意に屈する「模倣犯」の構図などは、オウム事件などを経た後だからより真に迫ったものを感じさせる所もありました。

AIの時代へ

またaiが発達した未来の犯罪を描いた攻殻機動隊では機械(作中で言うとタチコマ)に自我が芽生える「ゴースト」がしばしば作中で言及され、逆に全身擬態化を果たした人間の側が自分の心のそもそもの在処はどこにあるのか思い悩む逆説的な展開も見られました。あるいは犯罪者の因子を犯罪係数で管理するディストピア的未来像が描かれたアニメ PSYCHO-PASS サイコパス、などテクノロジーとの共存が世の中に与える変化や人類がどういう正義を持つかを問う作品も増えたように思います。

こういった複雑な時代の変化を経て、いま尚、正義(正しさ)の在り方も扱いがどんどん難しい時代に突入した時代となってきています。

敵とは時代によって変わる相対的なものだ(BY ビッグボス(MGS3)とも言われ、それはaiがシンギュラリティを起こし、人間の知覚を超えるであろう未来に置いても変わらずに残り続けるのでしょう。何が正しいかを機械に任せてもいいのかどうか、ただ時代による変化はあれど人類が長年培ってきた知恵を体系的に学び、話し合い(ディスカッション)を重ねる事がけっきょく大事なのかと。最近よく聞く言葉でもある「リベラルアーツ」を学び、個々人の掲げる善意や自由意思を価値の相対化を伴いながら考えていく事が、世の中がおかしな方向に流れそうな時に一定の防波堤となるのかなぁとも思っています。

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