書くということ
書くというのはある種単純な作業ではありますが、文章を綴るとなると様々なスタイルがあるなと考えることがあります。
日記やエッセイ、小説にシナリオ、短歌や俳句に歌や手紙まで。目的に応じて、形が変わっていきます。
それは例えば絵や音楽も同じで、作業としては同じ行為なのに、出来上がるものはまるで違う。それはどれも”出力”するものであって、それをする人もまたそれぞれ千差万別であって。多様な形になるもの納得できることではあります。
出力は表現とも言えて、人は自分の中の何かを表現したくて、色んな手段を使って色んな方法で吐き出していく。それが結果として芸術になったり、誰か自分以外の人の心を打つものになったりする。
何が言いたいかというと、目的の話なんです。
自分がここでやりたいこと、やろうとしていることは、あくまで自分の中のものを吐き出すこと。それを見失わないようにしないとな、という自戒です。
昔、ブログが全盛だったころ。例に漏れず私もその目新しいツールに飛びつき、色々と雑多なことを書いていた記憶があります。
今から考えればくだらなく、青臭く、小恥ずかしいそれらは、すでに電子の海へ帰っていきましたが、何かを残したいという衝動は確かだったように思います。
ただ残念なのは、見栄えを気にしていたことです。
クオリティを求めること自体は悪いことではないですが、見栄のために無理をするのはつらいことだと、当時は理解できていませんでした。
周囲のキラキラした意識の高い投稿を見ては、自分もそうであらねばと必死で喰らい付こうとしていました。それは目的ではなく、取り繕いでした。周囲より劣っている(ように見える)自分が許せなかったんです。
当然、無理をし続けて長続きするはずもありません。
やがてメッキは剥がれ投稿回数は減り、いつの間にかフェードアウトしていました。何のために書いていたのか、よく分からないまま。
書くということを、ありがたいことに一般的な教養として教わってきました。楽器はできませんし、絵も多少は描きますが文字ほど自由自在に操れません。今の自分が一番自分を表現できるツールが、書くということなんです。人によってさまざまだと思いますが、自分にとってはそうだったんです。
これはブログをやめ、小説を書くようになってから気付いた事実でした。己の内にある物語を形にしたいという目的を達成しようと考えた時に、自分の中にあった武器は書くことだったんです。
その武器は他人と比べれば貧弱ではあったけれど、でも自分の中では最強の武器だったんです。
上手く書けず、停滞した時期も多々ありますが、それでも十数年やめずに小説と向き合えているのは、そうした目的と武器の認識を忘れずにいられたからなのだと思います。
そして今回、随筆のような形でこうして書くことを決めたのも、小説では達成できない目的が出来たからです。
それが、より純粋に、形式にとらわれずに感情を吐き出したい、気持ちを形にして客観的に捉えたいという思いです。
小説は、どうしてもセオリーがあります。構成があり、流れがあり、何より面白いことを求められます。それが良い悪いではなく、そういうスタイルの書き物だからです。
自分の全てを小説に乗せて表現してやろう、と思っていた時期もあります。いや、生涯をかけて、という意味では今でもそう思っています。ですが、時間が掛かりすぎる。”今”書きたいことは、それじゃあいつ書けるんだ、と。そう思うようになったのです。
こうしてつらつらと思いついたままに書き綴っていくこと。推敲なんかクソくらえで感情のまま吐き出すこと。ともすれば自慰行為やチラシの裏にでも書いてろと言われるようなことこそを、今の自分は書いていきたい。そこには見栄も何もなくて、ただ自分を楽にしてあげたいがためのデトックス。それが今の自分にとっての書くということ。
多分、また何年かして見返してみると、恥ずかしくて悶絶するようなことも書いていくと思います。でも、それでいいんです。だって、今の自分を助けたいから。