見出し画像

伝えるということの可能性 ~ 翻訳家

 黄昏の頃、その客人は来店した。
 
 灰色の空が数日続き、なかなかやって来ない夜とまとわりつく湿度が窓から見える田園風景をぼんやりとしたやる気のない水彩画のように見せている。
 そんな景色を眺めながらその女性は、マサラチャイを、と注文した。どこかアメリカの児童文学に登場しそうなキャラクター観と、確かなアイデンティティをもとに自立している空気感が漂う女性。
 
 かなめさん。翻訳家。
 
 まだインターネットで世界がつながっていなかった頃、一定数の嗜好家達が挙って読み漁っていたもの。翻訳小説。
 理解するのに想像力を研ぎ澄ませて挑んだSFだったり、小洒落た表現と軽いユーモアを楽しみながら謎を追いかけたミステリィだったり。
 異国生まれの物語たちが持つ独特の質感は一度はまってしまうと癖になる快楽であった。
 そんな極上の嗜好品に携わるかなめさんは大学進学後、アメリカへの留学などを経て英米文学やジェンダー論などを学ぶ。アメリカ留学中に触れた比較文学というジャンルに興味を持ち、大学卒業後は東京に場を移し大学院にて造詣を深めていく。
 やがて社会に出ると高校の英語教師として10年を費やした後、フリーランスの翻訳家として活動を開始する。

 言葉というものに興味があった。
 
 伝えるためのツール。伝えたいことをきちんと伝えることができたなら、結ばれる。それは人と人だったり、国と国だったり、世界と世界だったり。

 翻訳家としてのかなめさんの根源にはそんな思いがある。とは言え文化背景や宗教観などが全く違う異国の思想や物語を日本人に分かりやすく表現するのは至難の業である。
 まず原文を読み、その作者の思いを汲み取る。そこには意図的に難解な表現を用いている場合も多々あり、そのまま翻訳してしまうと読み手は困惑する。
 ではどうすればよいのか。
 伝える側、伝えられる側、両方の思いを抱えたままピンポイントの着地点を探し求める。そういったことを粘り強く繰り返す。
 翻訳とはただ外国語を日本語に置き換えれば良いという単純なことではなく、表現者としての腕も要求されるのである。
 昨今ではAIの台頭で翻訳というものが誰でも手軽にできる時代になった。それでも、人が人のことを思って人のために翻訳する。そういった領域にはまだまだ遠いような気がする。

 数多の娯楽が揃ってしまった現在、翻訳本の存在はエンターテイメントという舞台の隅に追いやられてしまっている。迫力があって凝った美しい映像を世界中からいつでも入手できる。それはそれでもちろん素晴らしいことではある。それでも、独特の質感を持った翻訳本は大脳を使って遊ぶには今でも非常に優れたアイテムである。
 時代が変わったと言ってしまえばそれまでなのだが、翻訳家を職業とするということはそんな時代とも戦わなければならない。

 喫茶を終え、かなめさんはアメリカの児童文学を実写化したような軽い笑顔を残し店を後にした。

 今晩は久しぶりにジェフリー・アーチャーでも読みながらウィスキーを飲もうか。アイラ島で造られた消毒臭いやつ。
 ウィスキーの誕生には諸説あるが、錬金術が元になって蒸留技術が生まれたとする説がある。それで造り出された液体をラテン語でアクアヴィテと呼んだ。それがケルト人に伝わりゲール語でウシュクベハと呼ばれるようになった。意味は、命の水、である。
 やがてウシュクベハは世界に広まり、ウィスキーという名称にたどり着く。発祥の地であるスコットランドのスコッチウィスキー、アメリカのバーボンウィスキー、カナディアンウィスキー、アイリッシュウィスキー、そしてジャパニーズウィスキー。造られる国によって異なる個性を楽しむことができる。
 国境を越えて伝えてくれた人がいたから、その国独自のものへと進化し、それは新しい文化の胎動となり、そして世界はつながっていく。
 
 
 
  
本日のお客様
 
かなめさん
https://sayusha.com/authors/-/toshie-takeuchi

いいなと思ったら応援しよう!