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短編275.『戒名は身元不明』

「本当は同胞を殺すのは好きじゃないんだ」と男は言った。私は瀕死だった。喉元に隙間なく付けられたナイフは冷たかった。

 今更、命乞いをしたところで助かる見込みもないだろう。大声で助けを呼ぼうにもこんな雑居ビルの最上階では誰に届くこともなく反響して終わる。いや、それよりも早く私の首が胴体から離れるか。日本を出て五年、ニューヨークの片隅で行き着くところまで行き着いてしまった。

 ドラッグディールに手を染めたのは、生きる為だった。今この状況から振り返れば、こうして死ぬ為だったとも言える。ーーー笑えない冗談だ。せめてあんたは笑ってくれよ。

 目的は手段に、手段は生活に、簡単に取って代わられる。初めに抱いた志なんか腹の足しには敵わない。水は低きに流れ、人は易きに流れる。まぁ物理法則なのかもしれないな。地球に住む者共通の。

 折られた足には力が入らず、潰された拳では何を握ることも出来ない。どう転んでも周りには死しかなかった。こうして死に囲まれていると、不思議と温かい気持ちになれる。もうすぐこの冴えない現実ともお別れかと思えば、ナイフすら愛おしく感じられた。ーーー自ら命を断つよりずっと良い。まぁそもそもこの足じゃ窓までも歩くことは出来ないが。

 走馬灯みたいなものはなかった。目の前にはただの現実がそのままの形で置かれている。そこで人は産まれたり死んだりする。合法も非合法も一緒くたになって。

 俺はその現実に飲み込まれ、こうして今首元にはナイフ。ワイフみたいな家族を持たなかったことがせめてもの幸い。財布は軽い。これがまるで命の値段だとしたら、随分と安い売買。叩き売りにも似た商売。栽培即ララバイ。

 知り合いと呼べる者はいない。いや、出来なかったが正解。何処へ行っても馴染めない癖を引きずって韜晦。客はまた新しいプッシャーを見つけるんだろう。代わりは幾らだっている。「あいつ最近見ないな」「殺されたんだろ?」挨拶程度の軽いやりとりの後は記憶から消えていく。

 ーーーニューヨークくんだりまで来たのに、日本人の手に掛かって死ぬなんて、どこまでアジア人なんだよお前は。これじゃ日本で小さな商売やってたのと大して変わらないじゃないか。

 自分の中の自分は相変わらず子どものまま。子供部屋、呆れ顔でこっちを見ている。最後まで良い想いをさせてやれなかったのは唯一の後悔かもしれない。共に生きてきた友。長い付き合い。

 死体はハーレムのゴミ箱に棄てられるのか、ブロンクス川に注射器と一緒に浮かぶのか。どちらにせよお似合いだった。出来たら教会のそばに捨てて欲しいものだ。日曜の讃美歌をレクイエム代わりに。

 一人のアジア人が消えるだけだ。形式的な捜査も半日で終わるだろう。今も根強い反日。

 ーーー身元不明、俺に付けられる戒名はそれで決まりだ。

          *

「覚悟は決まったか?」という男の声がする。私は「あぁ」と言った。


#雑居ビル #ニューヨーク #ナイフ #ドラッグディール #小説 #短編小説 #詩

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