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短編96.『描かれた高田馬場〜追憶のビッグボックス〜』

 私は恋に落ちた。

 その女は写真の中で笑っていた。雑誌の一ページ。ジャズ喫茶の広告に載せられた客達の中にその人はいた。

 それは古い雑誌で奥付には昭和五十三年発行、と書いてある。もう四十年以上も前になる。この時二十歳でも有に六十を越えている。生きているのか死んでいるのか、そもそも何処の誰かすら分からない。

 手元のスマートフォンに、件の店の名を入力する。検索結果は「条件を加えて再検索せよ」とのことだった。

 広告のどこかに書かれた店の住所を探す。それはどこにもなかった。代わりに高田馬場駅を起点とした、ちゃちな地図が描かれているだけだった。古いジャズ喫茶にありがちなパターン。市場やマーケティング、親切心とは無縁に各々の店がスタイルを持って存在していた証左なのかもしれない。不便ではあるが、骨がある。気骨と呼ばれるべき、もう絶滅してしまった類の。

 高田馬場か。今いる自宅からさほど遠くはない。まずは出向いて、この店がまだ残存しているのか調べることにした。何せ四十年以上も昔の広告だ。もう廃業して、無機質なビルが建っている方が自然だった。

          *

 駅まで走り、雑誌片手に電車に乗った。ーーー恋する女に会いに行く。気分は高揚すると同時に沈んでもいた。店がある保証はなく、あったとしてもそこに女がいる確率はゼロに等しい。仮にいたところで老境に差し掛かった相手に何を言えばいいのか。「もう少し早く出逢いたかった」か?昭和五十三年といえば、私はまだ精子としても形を成していない。どだい全てが無理な話だった。

 電車は高田馬場駅に滑り込んだ。ビッグボックス口から出る。そういえば雑誌広告に描かれた店の地図には、目印として「ビッグボックス」の表記がある。妙に嬉しくなった。見上げたビッグボックスが今もこうして在ることを頼もしく思えた。彼女もこの前を通り、西武新宿線に乗ったことがあるだろうか。時には、このビッグボックス前を待ち合わせ場所にしたりなんかして。ーーー誰と?心が灼けるように痛んだ。

 店への道すがらすれ違う人間が皆、昭和末期の装いに思える。ファッションは繰り返す、と云う。ベルボトムの奴がいる。柄の派手な大きめのシャツの奴がいる。ラブ&ピース、バブルの残党。

          *

 店はあった。ビルとビルに挟まれ些か窮屈そうだったが、しかと存在していた。

 曇った色ガラスの窓越しに中を覗く。

 女はいた。珈琲カップを前にカウンターに座っている。化粧は現代風のそれだった。

          *

 物事の展開がまるで大正期の三文小説みたいだ。もし知らぬ間にタイムスリップでもしていたのだとすればSFか。なんにせよ売れなそうだ。まさか居るとは予想していなかった。淡い期待が現実となる時ヒトはただ立ち尽くす。狼狽、老梅、蝋梅。

          *

 何事もなかったかのように扉を開けた。出口を失っていた柔らかなフレーズが漏れ出してくる。多分これは、レスター・ヤングのテナーサックス。その音は私をすり抜け、早稲田通りへと流れていった。

 店主らしき人物の厳しい目が注がれる。うん、それでこそのジャズ喫茶。頑固だろうが偏屈だろうが、生き残ってくれていて良かった。思わず店主の手を取りそうになるのを辛うじて堪える。私の目的は別にある。対象物までは僅か数メートル。相手がカウンターにいたことが幸いして、席を一つ挟んだ隣に座れた。

 ーーーで。何て話しかければ良いのだろう。

「これ、あなたですよね」…警察か。

「あれれぇ?この写真、お姉さんにそっくりじゃない?」…名探偵のコナン君か。

「もしかしたらこれは運命かもしれません。そう思いませんか?」…気持ちが悪過ぎるし、唐突過ぎる。

 ーーーこんな時、ハードボイルドな探偵なら何と言うだろう。酒でも奢るのだろうか。メニューを眺めると意外に高い。家を飛び出してきたが故、財布には自分の珈琲一杯分の金しか入っていなかった。

 珈琲を頼みつつ、店主に雑誌を見せる。
「いやなに、この雑誌を見て来たんですけどね」
「こりゃまた随分と古い雑誌をお持ちで」店主は微笑んだ。良かった。
 ーーーそして、これが作成開始の合図だ。件のページを開く。
「いやー良い写真ですよね、コレ。皆が楽しげに写っていて。実に良い!この写真に釣られて『行ってみよう!』なんて思いましてね、来た訳なんですよ。…あれ?お嬢さん!もしかしてこの写真の彼女じゃないですか?」女に向けて雑誌を掲げ、しきりに指差す。「ほら!コレ。そっくりだ!」

 女は物憂げにこちらを見た。
「いやーでもおかしいなぁ。この雑誌は確か昭和五十三年のものだ。とすると、何も変わらず美しいまま今ここに座るあなたは一体…?私は夢でも見ているのでしょうか。もしこれが夢ならば醒めないで欲しい。私は!今!そう思います!」
 最後は、大学時代に鍛えた演劇の才能にモノを言わせた。『演技が芝居じみている』という理由でどの劇団からも断られた続けた、この才能を。弔いだ。

「これ、私の母」と女は言った。
「若いねー明代ちゃんだ。恵さんもあの頃の明代ちゃんそっくりに育ったもんだ」と店主は言った。
「なるほど」と私は言った。

 ーーー写真の女の名前が明代で、今ここにいるのが娘の恵。

 ということが分かった。

 名前を知れただけでも大いなる第一歩だ。また来ようと思う。この古びたジャズ喫茶に。母を狙うか、娘を狙うべきか、決めかねたまま。


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