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古典を復刊するということ

【2018年11月17日 1時27分 後半追記しました!】

今日も今日とて紀伊國屋書店・新宿本店へ。

私にしては珍しく、「買おうと思っている本」がある状態での訪店で、無事に買い物を済ませる。
が、当然それだけでは終わらない。「偶然の出会い」を求めて書店内を探検する。

たしかTwitterで「外国文学評論」の棚が「外国文学」の棚に統合された、というつぶやきが流れていたな、と思い出し、いそいそと2階へ。なるほど、たしかに棚が統合され、しかも詩集のコーナーも移動している。

そのままツツツッと歩みを進め、日本の「文学評論」や「エッセイ」のコーナーへ。

そこで出会う『本を贈る』(2018年、三輪舎)。初版本が行き渡って、表紙の色や判型が異なる第2刷が流通していることを知っていたが、そこにあるのは初版。思わず手に取る。

そのまま横に移動すると、これまたTwitterでたまたま知るに至った『安吾巷談』(2018年、三田産業)を見つける。これは、1950年に出版された坂口安吾のエッセイ(ルポルタージュ)を復刊したもの。判元は、三田産業さんという一風変わったお名前の出版社さん。つい最近起ち上がったばかりの会社さんで、この本が出版第1号とのこと。

Twitterで書影を知ってはいたのだが、実物はやはりより美しい。控えめなエメラルドグリーンに金の箔押しがなんとも心地良く、涼やかな上品さを醸し出している。
そこに、安吾節が炸裂した帯文。

「私は日本中の新聞が発狂しているのではないかと考えた。
これは多分に好意的な見方なのである。もしも発狂ではないとしたまえ。蒙昧。
いくら負けた国の話にしても、やりきれないじゃないか。」

上品さと安吾節が、不思議なバランスで同居している。

早速、冒頭のエッセイ「麻薬・自殺・宗教」に目を通す。すごい、いきなり覚醒剤の話である。しかも、安吾自身も常用していたことがサラッと綴られる。

※ ※ ※

さて、ここからは追記部分。

私は、安吾の作品は本としては『堕落論』を読んだことがあるだけで、あとは「教祖の文学」など細々としたものを拾い読みしたことがあるくらい。ただ、昔からなんとなく気になる存在ではあって、『戦争と一人の作家-坂口安吾論』(著:佐々木中、2016年、河出書房新社)は手元にある。

坂口安吾の作品は、「古典」に分類されると考えてよいだろう。既に著作権も切れており、青空文庫などで彼の作品は無料で公開されている。
今回の『安吾巷談』も青空文庫にあるし、Kindleストアでも0円で流通している。「タダで読めるなら、それを読めばいいじゃないか」と思う方ももしかしたらいらっしゃるかもしれない。

でも、私はこのような形で古典を復刊するのは、とても素敵なことだと思うのだ。

何よりもまず、新たな装いの書物として生まれ変わり、書店に並ぶことで、私のように興味をもって手に取る人間が(必ずしも絶対数は多くないかもしれないが)確実に存在する。読まれ続ける限り、作品は死なない。

そして、1冊の本としてまとめ上げる編集者の方の想いが、新作の本より強く感じられる気がするのだ。新作であれば少なからず「書き手の食い扶持」という事情が生じてしまうだろうが、故人となった書き手の作品となれば、原動力になるのは「編集者のピュアで真摯な想い」だ。夏葉社の島田さんも、思い入れを持って『レンブラントの帽子』を復刊されたとの記事を読んだことがある。
だから、この度の『安吾巷談』も三田産業さんの三田英信さんが何かしらの想いをもって復刊まで漕ぎ着けられたのだと思う。きっと、この美しいエメラルドグリーンにも、三田さんのこだわりが詰まっているのだと思うとこの本そのものが愛おしくなる(余談だが、私のスマートフォンもこれよりも濃い目のエメラルドグリーンだ。並べると相性が良い)。

これは完全に私の願望なのだが、機会があればぜひ、「なぜ、この時代にこの作品を復刊しようと思ったのか」「この作品にはどんな思い入れや思い出があるのか」ということをお会いして直接お尋ねしてみたい。きっと、素敵なお話が聞けるはずだ。

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秋本 佑(Tasuku Akimoto)
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