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マクロ経済学の雇用と失業の理論の基礎、最低賃金、ESG・ROICモデル等について

2019年7月30日に厚生労働省において開催された中央最低賃金審議会の小委員会で、2019年度の全国の最低賃金の目安を27円引き上げて時給901円にする方針が決定された。

当記事では、最低賃金引き上げによる効果のカギとして、女性や高齢者が挙げられている。

当文中では、マクロ経済学における雇用と失業の理論の基礎を確認した上で、最低賃金の引き上げによる効果などを調べてみることとしたい。

1. マクロ経済学における雇用と失業の理論の基礎

 1.1.1 労働需要

労働市場では、家計が労働を供給し、企業が労働を需要する。生産のために労働者を雇用する必要があるため、企業は需要する側に立つ。

最適化を行う企業は利潤を最大化しようとするので、生産者に最大の利潤(「収入-費用」)をもたらす労働量を需要する。そして、この労働量は労働者が生み出す収入とその労働者を雇用する費用を比較することによって決まる。

一般に労働の限界生産力は逓減する。限界生産力とは、1人の労働者が追加されることによって生み出される生産物の増加量である。また、労働者の限界生産力の市場価値を、労働の価値限界生産力と呼ぶ。企業は追加される労働者が企業にもたらす収入(労働の価値限界生産力)が、その労働者を雇う費用(市場賃金)と最低でも同じである限り労働者の雇用を増やし続ける。雇用される労働者数が増加するのに伴って、価値限界生産力は減少するので、曲線は右下がりになる。

利潤を最大化する企業は、労働の価値限界生産力と市場賃金が等しくなるところまで労働者を雇うべきである。市場賃金が変化するときには、労働需要量は、価値限界生産力を表した曲線に沿って移動する。このような右下がりの曲線(労働の価値限界生産力)は、様々な賃金水準で需要される労働量がどのように変化するかを示す労働需要曲線(需要される労働量と賃金の関係を表す)にもなっている(1.3 競争的労働市場の均衡にある図を参照)。

 1.1.2 労働需要曲線のシフト

労働需要曲線は、次の要因によってシフトする。

(1)生産物価格の変化
(2)生産物やサービスの需要の変化
(3)技術の変化
(4)投入価格の変化

 1.2.1 労働供給

労働供給曲線は、労働供給量と賃金の関係を表す。労働者は、賃金が支払われる労働、余暇、その他の活動(育児、料理、掃除などの家庭内での生産活動など)に対して、自らの限られた時間を最適に配分しようとする。市場賃金が高いときには、労働者は家庭の外で仕事をすることに、より多くの時間を使おうとするだろう。その結果、家庭内での活動や余暇に使う時間は短くなる。

したがって、労働供給曲線は、右上がりの曲線になる(1.3 競争的労働市場の均衡にある図を参照)。

 1.2.2 労働供給曲線のシフト

労働供給曲線は、次の要因によってシフトする。

(1)嗜好の変化
(2)時間の機会費用の変化
(3)人口の変化

 1.3 競争的労働市場の均衡

競争的労働市場における均衡とは、労働供給曲線と労働需要曲線の交点である(下図参照)。

競争均衡賃金(w*)では、労働供給量は労働需要量に等しい。賃金がw*を上回る点では、労働供給量が労働需要量を上回り、賃金を押し下げる。一方、賃金がw*を下回る点では、労働需要量が労働供給量を上回り、賃金を押し上げる。

 1.4 失業におけるひとつの理論、ジョブ・サーチと摩擦的失業

上の図では市場均衡賃金(w*)で働く意思がある人は誰でも仕事を得ることができる。しかし現実には、希望どおりの仕事を見つけ出すことは簡単ではなく、大変な努力と時間を伴うものである。

自分に適した仕事を見つけ出すためには、求人を出している企業を探し、給与などを調べて比較する必要がある。さらに求人への応募をしても面接を受け、他の候補者と競争する必要がある。

このような仕事を探す活動をジョブ・サーチと呼び、ジョブ・サーチに時間がかかることに起因する失業を摩擦的失業という。

 1.5.1 賃金の硬直性と構造的失業

賃金が市場の需要均衡水準(w*)よりも上回る(このときには、労働供給量が労働需要量を上回る)という理由からも、失業率は上昇する。労働市場における競争均衡を上回る水準で賃金が固定されているとき、この状態を賃金の硬直性と呼ぶ。構造的失業は、労働供給量が労働需要量を継続的に上回っているときに起きる。

賃金の硬直性は様々な原因で起きるが、市場賃金が市場均衡賃金より高い水準で維持されることにより、市場賃金で仕事に就きたい労働者を失業させてしまう。

 1.5.2 最低賃金法

下図のとおり、最低賃金がある場合、労働供給量は労働需要量と等しくはならない。

最低賃金(w)(Ctrl+Uでwに下線を引いても下線が表示されないため、文中ではwと書く)は市場均衡賃金(w*)よりも高い。最低賃金がwであるときには、雇用主が需要する労働量は、労働者が供給する労働量よりも少なくなる。結果的に、wでの供給量と需要量のギャップで示されるように、一部の労働者は仕事に就くことができない。このような失業者は、wの賃金水準で喜んで働くであろうし、wよりも低い賃金水準であっても喜んで働くかもしれない。最低賃金が定められることにより、雇用主は、労働供給量と労働需要量が等しくなるような賃金水準では労働者を雇用することができなくなっている。

続いて、最低賃金引き上げの雇用への影響などを、論文をもとに調べてみることとする。

2. 最低賃金引き上げの雇用への影響等について

 2.1 米国のケース

Card and Krueger(1994)は米国の隣り合う2つの州であるニュージャージー州とペンシルバニア州を用いて自然実験を行った。米国の最低賃金は、まず連邦の最低賃金が定められており、それに上乗せする形で州ごとの最低賃金が定められる。1992年当時の連邦最低賃金は4.25ドルであったが、ニュージャージー州は1992年4月1日より、最低賃金を5.05ドルに引き上げた。その前後に、同じ高速道路沿いにあるニュージャージー州とペンシルバニア州のウェンディーズ、バーガーキング、ケンタッキーフライドチキンなどのファーストフード店に普段何人の従業員を雇っているかを電話で質問した。

この質問では、最低賃金を上げたニュージャージー州では相対的に雇用が増加している。この結果により、Card and Krueger(1994)は最低賃金の増加は必ずしも雇用を減少させるとは言えないと結論している(しかし、この研究はその後に多くの批判もある)。

一方、最低賃金の引き上げには雇用喪失効果と潜在的な技術形成の機会を減らす可能性があるとするNeumark and Wascher(2008)らの研究もあり、最低賃金が雇用へ与える影響についてのコンセンサスは成立していない。

 2.2 日本のケース

日本における最低賃金が雇用に与える影響を確認してみることする。日本には2種類の最低賃金がある。1つは、地域別最低賃金と呼ばれるもので各都道府県ごとに決められている最低賃金で、すべての産業で働くすべての労働者に適用される(障害者の雇用など一部例外的な措置がある)。もう1つは、各都道府県・各産業ごとに定められた特定最低賃金と呼ばれるものである。

Kawaguchi and Mori(2009)は1982年から2002年にかけての『就業構造基本調査』に基づいて最低賃金労働者の特性と最低賃金引き上げの雇用への影響を実証分析している。この研究では、女性、中卒・高卒、地方勤務、小売・卸売・飲食・宿泊業、パート・アルバイトといった属性をもつ労働者が最低賃金水準で働いている可能性が高いことが分かっている。また、最低賃金の上昇は10代男性労働者と中年既婚女性の雇用を減少させるとしている。


参考:川口大司、森悠子(2009)「最低賃金労働者の属性と最低賃金引き上げの雇用への影響」『日本労働研究雑誌』2009年12月号

Kawaguchi and Mori(2013)でも、最低賃金の上昇は若年労働者に対して雇用減少効果をもつことが示唆されている。


参考:川口大司、森悠子(2013)「最低賃金と若年雇用:2007年最低賃金法改正の影響」RIETI DP 13-J-009

 2.3 最低賃金はよい貧困対策か?

最低賃金が低技能労働者の雇用を減少させるとしても、雇い続けられる低技能労働者の賃金は上がるので貧困対策の観点からは望ましいという考え方もありうる。

Kawaguchi and Mori(2009)によれば、最低賃金労働者の50.54%は、世帯主ではなく世帯所得が500万円を超える世帯に所属しているとされる。このことは最低賃金労働者が必ずしも貧困世帯の構成員ではないことを示している。

貧困対策を目的とするならば、より貧困世帯にターゲットを絞った政策の方が有効である可能性もある。

3. ルイスの第2の転換点と賃金の上昇について

総務省が2019年7月30日に発表した「労働力調査」では、女性の就業者数が初めて3000万人を超え、また35~39歳女性の労働力率は76.7%となり、過去最高に近い水準となっているとのことだ。

コンビニエンスストアの24時間営業問題など人手不足が叫ばれるが、賃金の上昇が見られないことも労働における課題のひとつとされる。

賃上げについては、不況期に賃下げができず人件費調整に苦慮した経験を持つ企業ほど、将来の不況時に再び問題に直面することを考え、景気が回復しても賃上げに慎重になる。逆に、過去に賃下げを実施できた企業ほど景気回復期には賃上げに積極的になっている可能性が高い。このような考え方を「賃金の上方硬直性」と呼んでいる。


参考:山本勲、黒田祥子(2016)「過去の賃下げ経験は賃金の伸縮性を高めるのか:企業パネルデータを用いた検証」RIETI DP 16-J-063

賃金の上昇が見られない要因は様々考えられるが、労働供給の拡大が収束し労働市場がルイスの転換点を迎えれば、賃金が上昇する可能性についても指摘されている。

4. 企業価値とESG・ROICモデルについて

企業活動においては持続的な企業価値向上と中長期的投資の促進などのコーポレートガバナンス改革も課題とされている。企業の長期的な成長のためには、ESG(環境(Enviroment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance))の観点が必要とされることもある。

経済産業省が2014年に公表した「伊藤レポート」は、「ROE経営」への機運の高まりに大きな役割を果たした。さらに2017年には「伊藤レポート2.0」も公表されている。「伊藤レポート2.0」ではESGや、その視点に基づく長期投資などに力点が置かれている。

参考:伊藤レポート 2.0

また、近年は「ROIC経営」も注目されている。ROIC経営では、「ROIC(NOPAT÷投下資本)>資本コスト(WACC)」が企業価値の向上にとって重要となる。ESG・ROICモデルでは従業員の満足度といったSのファクターも持続的成長のカギとなる。

企業は従業員のための投資をすることも重要だろう。従業員の満足度を向上させるためには、データのより一層の活用も大切かもしれない。

5. まとめ

2019年10月には消費税の増税が予定されており、消費者および企業にとって負担増となることも考えられる。また少子化や年金などの問題、2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピック2020のあとには景気減速の懸念もある。

ダロン・アセモグルとジェイムズ・ロビンソンによる著書『国家はなぜ衰退するのか』では、国家の継続的な繁栄は開かれた政治と経済の制度が重要であると指摘している。「収奪的」な制度であれば持続的な成長は不可能で、誰にでもチャンスがあることなど、民主主義的なものを含む「包括的」な制度が持続的成長を可能とする。国家だけでなく、労働者および企業も包括的な制度が持続的成長にとって重要だろう。

今後、労働者や企業などの持続的成長を促す制度設計は望まれるだろう。


【参考文献】
ダロン・アセモグル、デヴィッド・レイブソン、ジョン・リスト(2019)『アセモグル/レイブソン/リスト マクロ経済学』岩本康志監訳、岩本千晴訳、東洋経済新報社
川口大司(2017)『労働経済学:理論と実証をつなぐ』有斐閣

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