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『150年』展感想 ~『芸術は、今そこにある以上のものを、価値として示さなければならない』~

 ・特殊な展覧会について

その『原則』に気づかせられたのは、2025年1月18日~1月27日に南池袋で行われた『150年』というタイトルの、複数の芸術作家による展覧会だった。

この展覧会の特筆すべき点は、再開発によって2025年中には取り壊しが決定している全6棟の建物の間に大穴を開け、独自の仮説通路を貫通させて、一つの会場にした点だ。

観客は、かつて人々が生活し、或いは仕事をしていた部屋を渡り歩く。
部屋には、美術作家達の芸術作品が置かれていて、観るものは階段や仮設通路を通り、迷いながらも様々なルートをたどり、その場所を見て回るのだ。

廃墟好きにも、変わったものが好きそうな人々にも、この展示は刺さってXでの評判となり、途中からチケットが予約制に変わった程だ。

それも当然だ。

今まで聞いたことがない上に、これを逃せば一生見る機会がないであろう、特別な展示方法なのである。

いったいどんな作品が置かれるのだろう。
或いは、自分が作品を置くとしたら、どんなものを置けばいいのだろう。

そうワクワクして、この会場に向かった人が多い事だろう。

私も、その一人である。

そうして、かつて他人が生活した場所に足を踏み入れたわけだが、そこで思ったことこそが、冒頭の

『芸術は、今そこにある以上のものを、価値として示さなければならない』

という感想だ。

 

 ・その、弱さについて

どういうことかというと、私は家と家同士を仮設通路で土足で渡り歩くことをゲームみたいだなと、まず無邪気に楽しみつつ、様々な部屋の作品を、片っ端から見て行った。そして幾つもの作品を見ていった結果、私はこう思ったのだ。

そこにある作品が弱い、と

何かの意味は持つのであろう『それ』について考えるより、かつて住んでいた人が使っていた棚の上の置物だとか、窓際に置かれた鉢植えだとか、階段の色あせたミッキーのパズルの方が気になってしまう。

中には、家々にあったものを利用して作品を作ったり、そこにある部屋を改造した作品もあったのだが、『それ』よりもそのままの状態を見せて欲しかったと思ってしまうのだ。


 

・時間というものの重さ、或いは芸術の価値

何十年かけて暮らしてきた場所の強さと、今わざわざ作った作品の弱さ。

この差こそが、展覧会の150年という言葉に含まれる、時間というものの重さなのだと、私は思う。
何の変哲もない家の、生活という営み。そこらへんで買ってきた平凡な物が、本人の意志と行動と偶然のまま、使ったり、置きっぱなしにする膨大な時を経て、何かしらの『味』を得るということ。

果たして、その状態のものをわざわざ壊してまで、主張すべき何かがあるのか?

それを、芸術を作るものは問われていると、私は今回の展示会で気づかされた。

・だからこその、問われる意味

そう思うと、画廊や美術館という場所は、なんて人間の生活から離れてる場所で、存在にとって甘い場所なのだと、思えてくる。

生活する家や職場とは、無数の意味に囲まれた場所だ。
一方、画廊と美術館は、無数の意味をできるだけ排除した場所なのだ。

鑑賞というものが、より人の目を奪い、より人の関心を奪うことを勝負とするのであれば、他に意味の比較対象がない場所で特別をアピールすることの、なんと容易いことなのか。

無数の意味を踏みにじる、僅かな意味。

そういう視点に立つと、無数の意味のあるものを壊し、芸術作品を置いたこの展示が、それぞれの6棟の生活を壊し、そこに再開発をすることへの批判となり、またそれは、古いものを壊して似たものを並べて来た日本そのものへの問いにも聞こえてくる。

『これから、あなたが作るものは、本当に意味のあるものですか?』
『それはわざわざ、今あるものを壊してまで、作るべきものですか?』

それに、どう答えるべきか。
その答えなんてものは、結局の所、私にはわからない。

そう、だからこそ私は思うのだ。

『芸術は、今そこにある以上のものを、価値として示さなければならない』と。

芸術家は時間を積み重ねてきた存在に対して、それでも主張したいと思えるものを、全力でぶつけなければならない。
自らの存在と才能と人脈の限りを使い、それでも世界に伝えたいものを、
考え、試し、問い続けなければならない。
そこにこそ、価値が宿るのだと、私はそう思う。

『芸術家でない、自分は問われない?』
そんなことはない。私も、あなたも、問われるべき存在だ。

かといって、すぐに答えなくていい。存分に迷えばいい。時間が来るまでは。たとえ、時間が来ても、気になるなら引きずっていればいい。

この場所をスマホで撮影しつつ歩いた、今日のように。
それをいつか思い出す、どこかの街角の中でのように。

人は歩みを続け、悩みを続け、より良いと思えるものを形に残していくのだ。

それこそが、先人と生物の無数の死体の上に立つ、我々の義務なのだ。





2025.01.22 他人の家を土足で荒らす、罪悪感を最後には覚えながら



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