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「他人に期待しない」にモヤモヤする早大生


この1年で、大学の同期3人から「他人に期待しない方がいいよ」と言われた。それぞれ違うタイミングで。おそらく、わたしが他人に期待しては傷ついているのを見て、励まそうとしてアドバイスしてくれたのだと思う。すごく嬉しかった、ありがとう。実際、その通りだと思う。


ところで、世間では「他人に期待しない人」がさも大人であるかのようにみなされている気がする。みんながどう思うかわからないけれど、わたしはそう感じている。「他人に期待しないこと」の大切さを理解しているつもりながらも、なんとなくモヤモヤが残るわたしは、その風潮にもモヤモヤしてしまう。他人に期待しないことが大人?他人に期待しないことが正しい?うーん…。ということで、なぜモヤモヤするのか考えてみることにした。

簡単に言うと、「他人に期待しないようにしている」という表現を聞くと、「自分は何でもできるけど」というニュアンスを感じてしまうからなのではないかと考えている。いやいや、別に自分ができるなんて思ってないよ!と言われそうだ。そうだね、ちょっと足りてませんでした。


例えば、誰かが自分に10億円くれるとは誰も期待しないだろう。だって自分が誰かに10億円あげることができないから。自分ができないから、他人にも期待しない。
だけど、誰かがエレベーターのボタンの前に立ったら、その人が「開」ボタンを押してくれるだろうとは思うのではないだろうか。だって、自分もそうするから。

このように、「他人に期待する」とは、自分ができること、特に「自分の得意なこと」を他人もできると期待することだと思う。
(この話を友達に話してみたら、「自分が苦労してできるようになったことは、他人にも期待しないんじゃない?」と言われた。確かにそうだ!苦労してできるようになったことは、おそらくその人の「得意」なジャンルではない。)
だから、人は自分の得意なことを、それができるのが当たり前だと思って、他人に期待してしまうのではないだろうか。まあ、ご存じの通りだ。


では、なぜ「他人に期待しない」にモヤモヤするのか?たしかに、「他人に期待しない」という表現を使う人は、「自分はたまたま得意だからできるけど、周りはできるとは限らないから、それを求めたりしない」という謙虚な意味で使っているのかもしれない。しかし、ここですれ違いが生まれる。

「他人に期待してない」という表現を聞いたわたしには、「自分はできるけど、他人はできないようだから」という風に聞こえてしまうのだ。つまり、その表現の中に謙虚さではなく、傲慢さを感じ取ってモヤモヤする。できること、できないことは人によって違うから、「いや『できる』って、それ、自分の得意なことだけ抽出して言っているよね」と思うのだ。自分が得意なそれをできるからといって、その他のことも相手よりできると思ったりしているのではないかという疑念の生じる発言に、苦手意識を覚える。

だから、そのような誤解を生まないためにも、わたしの中では、「他人に期待しない」だけだと表現として足りない。もし言うなら、「自分が得意なことに関しては、みんなが自分と同じくらいできるとは思わないよ。でも逆に、他人は簡単にできることでも、自分は全然出来ないってことも多いんだよね~。」と丁寧に言わないといけないなと思っている。自分には出来ないことが、本当に多い。

つまり、「他人に期待しない」という表現に「自分は割と何でも出来るんだけどね」というニュアンスが含まれていると感じる以上、何でも出来るわけじゃないわたしはその表現を使うのが怖いのだ。「他人に期待しないなんて言えるレベルなの?」というカウンターを食らいそうで。そしてこの表現が好きじゃないから、「他人に期待しないこと」それ自体にも疑問を呈するようになったのだと思う。


他人に期待しないことが大人だとみなされている風潮は、「大人なら『他人はそんなにできない』という諦観をもたなきゃいけないよね」という認識の共有だと考えているが、その認識を持つ人たちに対しては、「ご存じだと思いますが、自分も他人も結局そんなにできてないはずなのです。もちろんお互いさまだから口に出す必要もないし、心の中で思うにしても、『期待しない』と唱え続けていると、気づかないうちに自分がさも周りより優れているかのように思い込んでしまいそうですよね。そのような慢心、芽生えてきていませんか?」と斜に構えたことを思ってしまうから、「他人に期待しないこと」にモヤモヤするのではないかと思う。

「他人に期待しないこと」を拒絶しているのではない。「他人に期待しない」ことで自分が優位に立っていると思い込むことを避けたいのだ。


まあわたしは「他人に期待しない」より遥かに下のフェーズにいる。
さっき宝くじ買っちゃったし。

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