対話と僕㉗:トレーニングとしての対話
・はじめに
昨年に引き続き定期的に対話をする機会を得られているのだが、とある方からこんなフィードバックをもらった。
こんな素敵な反応をもらえてとても嬉しいのと同時に、対話を通じて得られるモノについて新たな着想を得ることができた。
上記以外のフィードバックも改めて整理した結果、対話のトレーニング的な役割という考えに至った。
・トレーニングとしての対話
僕が今関わっている対話ではどんなトレーニングができるのか、自身の感覚とフィードバックから以下のようにまとめてみた。
批判を受け入れる
答えが出ない状況を受け入れる
相手を知ろうとするために質問する
相手(意見や心情)に興味関心を持つ
話しながら自身の発言や意見を省みる
生煮え(思い付き、未成熟等々)の意見を発言する
上記に加えて冒頭に挙げた「内省する」も含まれるのだろう。
突き詰めればもっと当てはめられる気もするが、2年程度の経験の中でもこれだけの成果を挙げることができる。
しかもこれらは中長期的にはもちろん、短期的にも鍛えることができる思考や行動のように思える。
僕が今まで対話で得られると思っていたモノは中長期的に得られるモノが多かったと思う。
改めてこうやって考えてみると短期的な効果もあるのかもしれない。
あまり稚拙なモノにはしたくないと思いながらも、わかりやすい効果や成果がある事も大切だろうなと感じた。
・トレーニングで得られるモノの共通点
ここからは上記に挙げたモノの共通点について考えてみようと思う。
対話において得られるモノなので当然ながら相手があってのモノなのだと思ったのだが、それは『人』に限らないのではないかと感じた。
生煮え・批判的な意見、興味関心、答えが出ない状況、といったように様々なモノと『向き合う』姿勢が鍛えられるのではないだろうか。
そしてそれは能動、受動どちらにも言い換える事ができそうだ。
相手に向き合ってもらう場合と自身が向き合う場合である。
相手からの意見を受け入れるとき、自分の意見を伝えるとき、どちらの場合にも当てはまるという事だ。
また、ここで気を付けなければならないのは得られるモノが『答え』ではなく『姿勢』であるという事だ。
解決策を見出せるかどうかは課題が存在する環境や状況、タイミングの影響を多大に受ける。
全てがかみ合って短期的に解決策が見つかる事は稀であると考えると、目の前にある状況と『向き合える』能力は重要なモノではないだろうか。
安易に、短絡的に答えを求めずその課題と向き合う姿勢は様々な場面で重宝するものである。
この数年各所でその重要性が延べられている『ネガティブケイパビリティ』にも通ずるものがあると言える。
答えを求めるのではなく『向き合う』、言葉遊びのように思えるが答えが定めづらい、定められたとしてもそれ自体が常に変化するような現代においては重要な概念であり能力であるように思える。
『向き合う』ことが解決を放棄するものではないという事も言及したいところだが、それはまた別の機会に回したいと思う。
・最後に
以前は自身の経験から感じるものとして対話から得られるモノをまとめたことがあった。
対話を繰り返す事で、対話を共にする人からも同じようなフィードバックをもらえたことは驚きだった。
新しい発見にも繋がったので、改めて実践を通じて学ぶことの大切さを実感する事ができた。
前述の6つの要素についてはどこかで一つずつ解説したいと思うが、今回はここまでにしたいと思う。
対話を『万能な解決策』とも『時間がかかる無駄な策』とも違う捉え方ができる要素が見つかった気がする。
この辺りは徐々に整理しながら『トレーニングとしての対話』について体系的にまとめていきたいと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?