読書会の振り返り
2週間ほど投稿できませんでした。今日から気を取り直して更新していきたいと思います!
本日は、昨日読書会を行ったので、その振り返りを兼ねて記事を書いていきたいと思います。月に1回、同じ兵庫県で働く先生と一緒に読書会を企画しています。
今回の本は、私がレビューしていた、山口裕也氏の『教育は変えられる』でした。皆様はもう購入されましたでしょうか?まだ間に合います!是非手に取って読んでみてください!
自分の実践に影響をあえたる1文は?
私たちの読書会はいつもこの問いから始まります。一番自分に影響を与えた1文を見つけ、メンバーと共有します。
僕が選んだのは、子どもたちは「教えられないと何もできない」存在であるという認識を変える必要があるというところ。
そもそも子どもは「探究する生き物」であり、「学びの責任」を委ねる必要がある。しかし、学習指導要領に教えるべき内容が記され、授業時数やコロナによる休校も重なり、教師の「教える」という行為が加速していると考えられる。
それは、教師が「教えた」方が手っ取り早いからだ。子どもたちのやる気や意欲、知識の定着などを待っていられない。3月末には成績を出し、所見を管理職に確認してもらわなければならない。そのためにテストを行い、子どもたちを評価していく必要がある。
教える必要があるものとないもの
ここで一緒に読書会をしていたメンバーから、こんな発言が。
「教える必要があるものもあるんじゃないかな」
確かに、そうかも知れない。全て子どもに委ねるのではなく、大人から子どもへ「教える」必要があることはある。例えば図工でハサミの使い方を子どもに習得させるにはとても危険だ。そこは大人が教え、どのように使うのか、それを使って何を作っていくのかを子どもたちに探究させることが大切なのではないだろうか。
学びの責任を委ねるバランス
結局はバランスだと思った。どこまでを委ねるのか。学びの責任は子どもにあるが、教師には教える責任があるだろう。それは、例えばハサミの使い方などの技能であったり、算数などの公式であったり、国語でのフレームであったりするのだろう。
武器を与えてそれを活用させる。そのバランスを教師は考えていく必要があるのではないだろうか。
探究学習は拡散学習?
もう一つ印象的だった話に、探究学習の話題がある。小学校6年生「海の命」の授業について話し合った。
国語を探究的な学習で進めると拡散する。なぜなら、子どもたちがたてた問いをそれぞれが探究し、まとめていくから。全員で一つの問いについて深めることはしない。
最後にそれぞれの探究を共有する時間をとったとしても、「そいういう読み方もあるよね」というふうに拡散して終わってしまう。解釈の拡散が起きる。
確かに物語文に答えはないかも知れない。読み手によってどのように捉えるかは自由だ。それを理論立てて紹介することができればいいだろう。
出口を揃えて拡散を防ぐ
そもそも拡散してはいけないのかという考えは置いといて、ゴールを統一して収束させるという案が出た。先ほども書いた「共有」である。パフォーマンスにそれぞれ探究したことを発表してもらうのである。
その発表の中でもしかすると共通する内容が出てくるかも知れない。教師はそこを見極め、「もしかするとみんなはこの物語について○○ということを言いたいんじゃないの?」「探究していることは違うけど、同じような話が出てきているね。どうしてだろう?」と共通する部分に着目させ、物語の本質に迫っていくことは出来るかも知れない。
山口氏の言う通り、指導書に沿って「生き方」にこだわった授業をする必要はないのである。
教師も探究者として語る
ここで大切なのは、子どもだけに探究した内容を語らせないと言うこと!教師も発表する!
「先生はこんなふうに読んでみたんだけどどうかな?」という具合に、教師の解釈も伝える。子どもと一緒に物語を探究するスタンスを取っていく。この関係が大切なのではないだろうか。
授業は学びの導入
読書会を通して、「授業は学びの導入」だと思うようになった。
子どもは自分で学ぶ力を持っている。教師が授業で全て教える必要はないのだ。情報はいろんなところに転がっている。
授業をきっかけとし、子どもたちが「学びたい!」「家に帰って調べてみよう」「今日はゲームせずに調べ学習しよう」と言うマインドになるような授業が、今求められているのかも知れない!