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生きること

小さい頃からよく、
「生きづらそうな子だ」と大人に言われた。

言った相手はわたしがまだ意味もわからないと思って言っていたのかもしれないけど、
その言葉の意味が、しっかりとわかる前から
その言葉だけがずっと自分の頭の中に残っていた。

その言葉の意味がわかるようになってからは、
その言葉に苦しめられた。

自分の中に抱く「生きづらさ」と
しっかりリンクしてしまったからだ。

自分から見た「生きづらさ」と
人から見た「生きづらさを抱える人」という印象とに
二重で苦しめられた。


産まれた時、わたしは1kgちょっとしかなかった。
極小未熟児というらしい。
死産も覚悟しての、予定日より1か月早い出産だった。

幸い無事に産まれて今ここにいるんだけど、
年度始めに産まれる予定が
年度末に産まれることになったわたしは、
主に小学校で、体格の差に苦しんだ。

そのたびに母は、
「小さく産んでごめんね」と泣きながら謝った。

その時の自分が、なんて答えていたのかは思い出せない。だけどただただ、母が自分を責めるのをやめさせたくて、必死に、大丈夫なふりをした。

いつの間にか学校へ行くのがつらくなったときも、
大丈夫なふりをして家を出て、
マンションのエレベーターの前で、泣きそうになるのを必死に堪えて、何十分とそこに立ち尽くした。そしてちゃんと学校に向かった。

今も、予定の時間よりも早めに出ようとしてしまうのは、この頃の記憶があるからなのかもしれないと、このnoteを書いていて初めて気がついた。


学校を休むと悲しい顔をするから。
何か辛そうなことがあると悲しい顔をするから。

学校に行く前の日は、
本当は、抱きしめてもらいたかったけど、
母親はわたしが物心ついた頃から、抱きつかれることを極端にいやがったから、小学生の頃にはもう諦めていた。

拒否される悲しさも、
悲しい顔をされる悲しさも、
自分はもう、2歳とか3歳とかの頃の記憶からある。

その人の顔色を窺わずに、だれか安心できる人に全身を預けて甘えるなんてことは、子どものわたしは知らなかった。


「生きづらさ」とは、
自分が持って産まれたものなのだろうか。

それとも育った環境で、
持ってしまったものなのだろうか。

あのとき「生きづらい」と言った大人は、
どんな意味で言ったのだろう。

小学生の時は
頻繁に父と母が喧嘩をした。
自分の部屋に引きこもっても、耳を塞いでも
怒鳴る声が聞こえた。

中学生の時に母が病気になって
わたしが高校生の時の母はいつも死にたそうだった。
行動に出るときもあった。

夜中に母がぶちまけてしまった筑前煮を、ひとつひとつ拾いながら「大丈夫だよ」と母をさする自分の声と感覚を、今でも覚えている。

ある時、わたしも堪らなくなって
「わたしやお父さんがいることは、死なない理由にならないの?」と聞いた。

母は、「ならない」と答えた。

今ではわかる。ならないんだと。
死にたいというのは、まったく別のところにあるんだと。

だけどあの頃は、16歳や17歳のわたしはわからなかった。自分を守ってくれるような存在としての親は、わたしの中であのとき一度完全になくなった。

高校時代、
自分の存在意義とか、
死とか生とか、
何かを知りたくて、
無我夢中で哲学書を読んだ。

授業にも出ずに、
先生には「落ちこぼれ」だと言われながら
進学校の底辺に寝転がり続けた。

だって、進路って将来への希望でしょ。
希望なんてなかったもん、自分の高校時代に。

学校の授業よりも、知りたいことがあった。
身近にあんなにも生きることが辛そうな人がいながら、わたしが生きていることを誰にも祝福されないと思いながら、進路なんて考えることはできなかった。

自分が抱えていることを話せる大人もいなくて、
友達にはお調子者の気楽なやつだと思われていて、
あそこでは勉強しないやつは、どうしようもないやつだと思われていた。


これは、母を責めるために書くわけではない。
こんなことを書いたら、読む人は
とんでもない家だと思うのだろうか。
そんなことはない。表から見たら、いつも穏やかで、幸せな家庭に見える。実際、わたしにとって耐えられないいくつかのことがありながらも、わたしのことを大事にはしてくれていたんだと思う。それは今になって思うことでもあるのだけど。

すべてが壊れているわけじゃないからこそ、苦しむこともある。

わたしも、それでも今でも、
やはり母のことは大事だし、好きなんだと思う。

自分が、もうずいぶんと幼い頃から家族に対して心を許せなくなってしまっていることを、申し訳なく思うくらいには好きなんだと、気づいたのは30歳を過ぎてからだったかもしれない。

本当はしてほしかったことも
してほしくなかったことも、
ちゃんと言葉にできるようになったのも同じくらいだ。彼女の存在が大きい。


だけどそれを、
今更母に伝えるつもりもない。今のところは。
お互いにもうすこし若かった時は、そのことを直接じゃなくても自分の感情をぶつけた時もあった。
だけど今両親には、すこしでも穏やかに残りの人生を生きてほしいと思っている。

自分の人生もままならないながらも、
いつの間にか、自分が両親に「生きていてよかった」と思わせる立場になったのかもしれないと、最近思う。

だけど今、ここにはっきりと書こうと思ったのは、やっぱりそれでも今も、生きづらいと思うからだ。

もう大丈夫だと思っても、過去の辛いことや嫌だったことを何度も反芻しては、繰り返そうとしてしまう。もう大丈夫なはずなのに、何度も何度もそう思っても、自分が怖かったことを確かめるようになぞってしまう時がある。


そんなに簡単には解決しないよね。
一生解決しないのかもしれない。
解決なんてしなくてもいいのかもしれない。
生きている意味なんて、本当はないのかもしれない。
だから、ここに書き残したい。

人生は巡るから、
いろんな波がくる。

このnoteは祈りみたいなものだ。

波にのまれそうなとき、いろんな人の顔を見て、いろんな人の言葉を受け取って、その時の温度や湿度や感覚や気分や、あらゆるものを受け取った自分しか、自分を守ってあげることはできない。

違和感を、
悲しみを、
後悔を、
ちゃんと抱きしめて生きていきたい。

祈りみたいなものだ。



カトリック河原町教会⛪(京都)




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