無名のヒーローと正義に満ちるギャラリー
「動揺して、逃げました。」
うなだれた中年女性は肩を落として謝罪した。表情を変えずに淡々と保険会社に電話をかける母。母のとなりで私たち家族よりも息を荒げて怒り心頭の“男性”。はたから見たら私たちが加害者で、中年女性が被害者のように見えるかもしれない…なんて、子ども心にそんなことを思ったりもした。
これは私が学生のころの話だ。
ファミリーレストランで食事をして駐車場に出たところ、「止まれ止まれ!」と大声で叫びながら一台の車を追って走っていく男性が目に留まった。何事かと驚いていると、停車した車の中から観念した様子の中年女性が降車する。その様子を確認して、男性は私たちのところへ来て「当て逃げ見たんですわ。ケーサツ呼んで。あの車にぶつけたんや」と。まもなくして、ぶつけられた車が私たちの車だったことに気が付いたというわけだ。
そう、この男性は当て逃げの瞬間を目撃し、自分の車ではないにも関わらず犯人を追ってくださっていたのだ。
逃げたということは当て逃げとはいえかすったレベルなのかと思いきや車は思ったよりも派手にぶつけられていて、左側のライトがつぶれて破片が駐車場に散乱していた。それでいて逃げてしまうのだから、やられた側の心情としてはどんなに困り顔で謝罪されてもやはり悪質だと思ってしまう。
田舎のファミレスの駐車場。防犯カメラはない。男性がいなければ私たちはぶつけどころのない怒りと事故なのか事件なのか疑心暗鬼を抱いたまま、車の修理費以上のモヤモヤを抱え続けたことだろう。
「すみませんでした」と観念する女性。保険会社との電話で手一杯の母を横目に、男性は「オマエ逃げたやな!?最低や!」と怒りが止まらない。
私だったら…とっさのタイミングで身をていして犯人を追うことができるだろうか。どんなドライバーか分からない。もしかしたら激昂してハネられたりするかもしれない、私だったら自己保身をまず考えてしまう。
中年女性には支払うべきものは支払ってもらい、男性には後日お礼を送った。気持ちだけでいいのにと何度もおっしゃったことが印象的だった。こんな具合に、4~5年に一度の頻度で徳を積み過ぎるヒーローに出会う。
いま話題の俳優がひき逃げで一晩で「容疑者」となった。本人からのコメントは出ていないが、報道で情報を見る限り、ひき逃げを目撃した後続車が追いかけた、目撃者が説得した等、ここにも被害者ではなくとも、警察官ではなくとも、信じる正義に乗っ取って行動を起こしたヒーローがいる。事故の瞬間が映ったビデオレコーダーを提供した人もいた。
こうした説得が重なったことで、一度は離れた現場に最終的に自主的に戻っているのだから、ヒーロー達の行動力には頭が下がる。
案の定SNS上には、その場にいたわけでもない “ヒーロー”のつもりでいる第三者による罵詈雑言が並ぶ。中には車や自転車を運転する限り誰しもが加害者になりうることを忘れているのではないかと思うような書きっぷりの自称ヒーローまで。加害者を咎めていいのは被害者と法律、そしてその場で行動を起こした真のヒーローだけだというのに。
SNSという近代のインフラがもつ瞬間湯沸かし器的な特性にどうしても馴染めないし、馴染んでしまうことが怖い。今すぐヒーローを目指すには未熟な私にはまだまだ難しいが、せめて煌々と燃えるネットの大炎上に鎮静剤を投入できるくらいのことは、文字の書き手として尽力したいと思った今日だった。
“正義感”から引き起こされる“処罰感情”への向き合い方を考えないといけないかもしれない。私は、やさしい言葉を紡ぎ続けたい。
2020/10/29 こさい たろ