精神障害者という立ち位置になって③
どうも、たろんです
このタイトルで書くのは何ヶ月ぶりでしょうか…
今まで何度も書く書く詐欺をやってきたような気がしますが、ようやく重い腰を上げました
いよいよ今回は大学時代のお話です
鬱病と診断され、その後双極性障害という現在の診断が下るまでの軌跡を書く形になります
長くなるので、2分割して今回は鬱病と診断されたところまで書こうと思います
前編とでも言いましょうか
面白くはないです
前半はただの状況説明なので後半の本編だけ読んでくれたらオッケーです
我ながら遅かったなとは思います
というのも少しばかり事情がありまして……
あくまでもどうしても主観100%のお話になるので、周りの人のことを悪く聞こえる書き方になってしまうのが避けられないと判断し、書くかどうかをずっと悩んでいました
まあ色々考えたんですけど、もう全部過去のことだし、当時を知る人間とはほぼ関わりが途切れているということで、書いちゃえ!となりました
もし当時の関係者がこれを見るなら一言言わせてほしい
あくまでもぼくの主観です
細々と更新してるnoteを今誰が読んでくれているのか全く見当がつかないのでこんな言い方をしています
保険です
もしかしたらちょっとだけ、いつもよりほんのちょっぴり長い文章になるかもしれません
興味のある方以外にはつまらん話になると思います
独り言、思考を整理するつもりで書くので読みづらいところが出るかもしれません
それでは、読んでくださる方はよろしくお願いします
2014年春、とある大学に進学しました
何のサークルに入るか何も考えず毎日別の新歓に行く頭の悪い行動を取っていました
今となっては懐かしい
そこでぼくはめちゃくちゃ勧誘の激しかった学祭の実行委員会に入ることになりました
1つ上の先輩達の勢いに負けました
こうしてぼくの負の大学生活が始まりました
最初は楽しかったんです
完全に舐めてたけど実はめちゃくちゃ意識の高い団体であるとか、夏休みが半分以上溶かされたりと言ったブラック気質でさえ気にならないくらい人間関係が楽しかったんです
1年生の時は本当に多くの先輩に可愛がってもらいました
間違いなく楽しかったと言える年になりました
後々になって知ったんですが、多くの人が1年目終了時に辞めるので引き留める意味合いもあったっぽいです
これもどうでもいいことです
学祭もまあ特に目立った失敗もなく成功していた記憶があります
2つ上の先輩が引退するのが物凄く悲しくて号泣してた記憶があります
自分が全然戦力になれなかった歯痒さと後悔もあって意識高い系みたいになってました
それくらいめちゃくちゃかっこよかったんです
過去形ですね
そういうわけで1年目が終わりました
同期は半分いなくなりました…彼らは正しい答えを選んだのだと胸を張って言えます
2年目からは責任感()を持て的な風潮になるのでまあストレスでした
これから2年生編です
新しい担当が決まりました
大雑把に言うと出店の飲食物等の衛生管理を任されました
参加団体の中で飲食を提供する全団体をリストにまとめて保健所に持っていき、学祭上での衛生問題的に提供可能かどうかを判断(添削)してもらう作業がメインです
添削されたものを各団体に伝え、変更してもらいます
判断基準は毎年変更される為、昨年まで可だったものが突然駄目になることが多々あります
そうなると大抵の参加団体側はキレてきます
おおよそ100近い団体が出店するので、会議が開かれる度に無限にキレられ続ける苦行が行われていました
だいたい3回ほどこれを繰り返して全団体が保健所の許可を得られることができます
僕個人としては、ただ仲介しているだけで何も悪くないはずなのにひたすらクレームを入れられるのでしんどかったです
ストレスでした
「わしに言ったって何もならんわ!!!!直接保健所に聞いてこい!!!」と何度思ったことでしょう
今となっては懐かしい話です
手違い?保健所側の勘違い?なあなあ?何が原因かは分かりませんが、米(炊飯)に関する大きな変更があって電源の確保と合わせてめちゃくちゃ苦労したのもこの年だったと思います
めんどくさいことこの上なかった
ぼくは何も悪くない
後輩がたくさん入ってきて嬉しかったなーって記憶もぼんやりあります
この時はまだよかった
学祭の準備は9月から本格化してほぼ毎日休み無く作業することになるんですが、特に大変なことがありました
本番の1~2週間ほど前でしょうか、所属する事務局の長がメンタルブレイクして駄目になってしまいました
今となっては全く他人事ではない()お話になりますね
判明したその日はだいたい深夜2時くらいまで大学に残っていた記憶があります
昨年引退した先輩方が駆けつけたり、3年生の方々が事務局長の家に行って安否の確認をしたり、忙しい1日になりました
親御さんが駆けつけたとかなんとかって話もありました
また、事務局全体で行う作業も全然進んでいないということがギリギリで判明しました
さあ大変、ただでさえギリギリでこなしてるのに作業が倍増えました
困りましたね
なんとか局員全体で力を合わせて本番までに間に合わせましたが、皆疲労困憊
同期の子とヘロヘロになりながらずっと相談したりしてました
事務局の同期は自分を合わせて2人だったんですが、その子と深夜まで残って色んな作業をやってた記憶が正に今ほんのり蘇ってきました
そんなこんなで事務局長が明らかに元気ではない状態で本番を乗り切ったわけですが、心身へのダメージが少なかったわけはなくって、結構大変でした
37.5度程度の微熱ですが、1ヶ月ほど全く下がらないという状態になりました
何度も内科に行ったけれど原因は見つからず、気づかない内に平熱に戻っていました
この熱のせいで当時の恋人からめちゃくちゃ心配されてデートもキャンセルになったという苦い思い出があります
今思えば、これがぼくの自律神経失調の始まりでした
ここから本編!!!!!!!!
こんな感じで2年生は終わりです
語るのがめんどくさくなってだいぶ駆け足&スカスカですがお許しを
ストレスがあったこと以外特にわざわざ話すことはないんです
はいそしてここからが3年生編
ぼくは事務局長というポジションになりました
もう一人の同期は平で全体のサポートという役割です
そして1つ下の2年生の中から1人事務補佐というポジションを選びました
ぼくの全ての失敗の始まりです
因みにこれは余談ですが、同期は3年生に上がった途端蒸発して大学にも来なくなったので実質的に除名されました、完
大きなストレスの一助となったことはまず間違いないでしょう
なんならちょうど新年度で活動が始まるというタイミング、それが最後に会った時なんですが、風邪をうつされてぼくは39.5度という高熱を出す羽目になりました
参加団体を集めての会議を行う訳ですが、いきなり局長が欠席という未曾有の事件でした
なんなら次の週も体調が回復せずに2週連続での欠席です
あほか
ここまで書いて1 年以上放置してました
続きを書きます
こういった体調不良やまともに引き継ぎされなかったことが大きく影響し、直属の後輩たちの信用はみるみる失われていきました
ここで先程述べた事務補佐が台頭してきました。後輩達は皆そちらの言うことしか聞かなくなり、実質のクーデター状態でした
表に出てたのかは分かりませんが…当時の僕に居場所はありませんでした
居場所のない状態は学祭が終わって引退するまでの半年間、ずっと続きました
支持は全て補佐を通して行う形になっていたのですが、補佐により勝手に書き換えられた状態で伝えられることがざらでした
更にはそれを知らされないのが当たり前でした
事務補佐含む後輩達に見限られた結果が形だけの"事務局長"というポジションでした
見えない部分で警察署や消防署、保健所等の渉外を行っていたんですが、こちらは個人作業だったので邪魔されることなく一命を取り留めました
まあこんな調子が学祭当日まで続き、ストレスは最高潮に高まり、その時にはもう重度の睡眠障害に陥り、朝まで寝られないことが当たり前になっていました
体重も半年で15kgほど落ち、心身ともにボロボロでした
当時の同期がいなければ、僕もまた前任者と同じように倒れていたことでしょう
これは大して特別な話でも何でもありません
ただの体験談なので
ただ後輩に裏切られストレス過多になって鬱病になっただけの体験談です
多く語ることはないなと思ってすっ飛ばしまくったんですが、こんな感じでぼくの学祭実行委員会としての活動は終わりました
学祭が終われば今度4年生です
就活・卒論がメインになってきます
結果から言うとどちらも上手くいきませんでした
何故なら鬱病になり何も出来ないまま部屋で苔と化していたからです
重い体を持ち上げ説明会に行くことは何度かあったものの、何の気力も湧かず結局は何もせずに終わっていました
卒論の方も鬱の影響で論文を読み進めることすら出来ず、課題も終わらせられなくなり、ゼミに出席するのとも出来なくなりました
そうやって気づけば夏休み
あまりにも眠れないく、気持ちも沈み家から出られない状態を見かねた元カノに精神科に行けと言われ、受診しました
予約しても1ヶ月待ちだったのでその期間にも余計悪化しました
辛いね
結果としては『鬱病』でした
診断された頃にはもう夜以外全く外に出られなくなっており、人が怖く、呼ぶも眠れず、正しく苔でした
元カノのおかげでギリギリ人として保てていたと言えます
そうしてここからが僕の精神科通いの始まりでした
22歳の夏
ということで前編は以上になります
後日近い内に後編に当たるpart4を投稿する予定なのでそちらの方だけはよろしくお願いします