「えらい」ってあんまり嬉しくない

僕は大学院生です。

大学生より長い期間学問を勉強しているっていう自負はある。大学生よりもより濃密な授業をしているという自負もある。でも、それだけです。

僕は週に1回必ず先生と一対一の授業がある。その授業のために毎週ある程度の時間をかけて、ドイツ語を読み、先生にとやかく言われ、復習をし、また次の週に臨む。そんなサイクルをしていて、他の授業の予習をし、担当になると発表もする。

そんな中、先生に

LEOくんはえらいよ、毎週毎週訳文作ってきて

と褒められた。

ただ、何かがひっかかった。

「えらい」とは?

おそらく僕がひっかかったのは「えらい」という言葉だと思う。

「えらい」っていう褒め言葉はいつ使うのか?

例えば、忠犬ハチ公のように飼い主を待っている犬はえらいと思う。他にも小さい子が何かをガマンしたときとかもえらいと言うだろう。さらにノルマを達成したときとか、やりたくない仕事が終わったときとか。

使命や言われたことを、他の欲求に負けずに、やり通したときに「えらい」っていう褒め言葉を使う気がする。

じゃあ僕は?

自分で選んで大学院に進学したつもりだし、ドイツ語を読むのも自分で選んだと思っている。だから、確かに課題は言われたことかもしれないけど、自分でその課題を引き受けに行っている手前、やり通すことはあたりまえではないのかと思ってしまった。

つまり、僕自身はえらくないと僕は思っているのだ。

じゃあ何て言われたい?

僕はえらくない。ただ僕が好き好んで引き受けてるだけ。

ただもう一歩メタ的に見たら、僕の行動は「えらい」かもしれない。そもそも選ぶこと自体がえらいとも言えそう。ただ、選ぶことについては何とも言えないところはある。人によって価値観が違うから。スーパーでコーラを買わない人がえらいとかも言えそうになってしまう。

じゃあ、えらくない僕は何て褒められたいんだろう?

僕は「えらい」という意気込みとかを褒めることよりも、能力的なところを褒められたいかな。特に授業とかのアカデミックな場では。

「えらい」よりも「ドイツ語読めるようになってきてるじゃん」とかの方が僕はうれしい。何か「えらい」だと、継続しているだけで、能力はついていないのかな?って思っちゃう。いや、実際ついてないのかもしれないけども。

ただ継続していることはえらくない

というよりも、やっぱり僕は何かをやろうとして、それを継続していることはえらくはないという価値観を持っているらしい。何かをはじめたなら、そこには責任を引き受ける覚悟があるからはじめたってことかも。

それって「えらい」のかなぁ?

でも、「えらい」って思っていた方が、絶対に精神的にいいとは思う。

何かよくわからなくなってきた。

少なくとも僕の中では、僕は「えらい子」と思われるよりは「できる子」って思われたい。「えらい」よりも「できる」の方が価値があるって思っちゃう。できてもやらない子はいるけども。

でも、一つだけ思うのは、先生はそんなに考えずに、継続していることとしっかりドイツ語が読めるようになってきているのが見えて「えらい」って言ってくれたのかもと思う。そうだったらいいなぁ。