欲しかった自信(と自己肯定感)を手に入れることはできたけど、プライドという余計なものも身についてしまった
高校の頃だろうか。中学の頃にはなかった、「他人との比較」という物差しを手に入れた。
そして、そのものさしで自分を計った。視野も狭かったため自己評価は低くて、一気に自信を失った。環境として、居場所がなかったのも大きかったと思う。
その頃の経験を長いこと引きずっていたんだけど、大学2年に入った自転車屋で働くうち、「自分はここにいていいんだ」という自己肯定感を身につけることができた。
その時期はいろんなことがあり、いろんな要素があって一度失った自己肯定感を身につけることができた。
全て勤務先だった自転車屋のおかげというわけではない。
でも、本当にあの自転車屋はいいところだったというのは確か。
10人くらいの小さな会社でした。
さて、ここで説明しておきたいのが、自信と自己肯定感は僕の中で異なるものということだ。
自信というのは、「僕はこれがあるから価値がある」というニュアンス。
自己肯定感というのは、「仮に僕から何もかもが失われても、別にそれでも生きてていい」というニュアンス。
後者の自己肯定感は身につけたものの、僕は特にまだ自信はなかったし、別になくてもいいかなと思っていた。
でも大学を卒業し、バイトとしてお世話になった自転車屋を辞め、
現職に就職し、ITのことを勉強して仕組みを理解していくにつれ、「周りの人に比べてここは僕のほうが理解できてるな」という経験を良くするようになった。
自信がついたきっかけ、理由は他にもあってこれはごく一面なんだけど、そんな経験が次第に自信を醸成していってくれた。
自信がつくメリットもたくさんあって
・ 発言に躊躇することが減った
・ 自分の能力を見限ることが減って、挑戦が増えた
・ 単純に、主観的な幸福度が上がった
ただこれは驕っているわけではない。
能力っていうのは多面的なもので、誰しも能力的に誰かより優れた面を持っているし、反対に、一面では劣っている。
視野が狭かった頃の自分は、変に自分の短所ばかりに目をやったり、「将来性」「他人の評価」というモノサシだけで能力の良し悪しを計って一喜一憂していた。
今は、冷静に多面的に人間を眺めることができるので、良いところなんていくらでも見つけられるようになった。
で、タイトルなんだけど、自信がついたのはいいけれど、同時に余計な贅肉がついた。「プライド」だ。
これはマジでメリットのない要らない子と考えている。
具体的な場面を挙げるとこの前、社内制度の話になったときに「君は知らないだろうけど」と法律の話をされた。
僕は大学で法律と経済をやっていて、まあ専門ではないもののそれなりに勉強して学があるつもりだ。個人情報保護法の改正内容についてもなんとなく把握しているし、ISOみたいな規約が法律に基づいていることなんて当然理解している。
ただ、「君は若いだろうから」「まだ社会人2年目だから」と、どうせ知らないだろうという認識で話されたことに感情的に反発してしまった。
しかもその相手は個人情報保護法の改正内容も把握してなかったのでなおさらだった。
ただ、この感情はいらない。「相手に評価してもらいたい」という他者に依存した欲求は、自分で満たすことができないので暴走する危険性がある。
あと単純に、この程度で感情的に反発してしまった自分をかなり恥じてしまった。彼にどう思われていようと、どうでもいいではないか。
自分への戒めを込めてこの記事を書いている。
ただ、書きながら、「プライド」というものを絶対的な悪と決めつけるのも視野が狭いのではないかと考え始めた。
今回のケースにおけるにおいて、
・ 相手に悪意はなく、誤解に基づく発言をしているのは確実。誤解が原因なので、自分のことをもっと知ってもらう。
というアプローチも存在する。
もしかすると、自分はこの「プライド」という感情的なものと今後ずっと付き合っていかないのかもしれない。これを押さえ込めるとか失くせるとか考えるのは、自分に期待しすぎなような気もしている。
その場合はずっと付き合っていく前提で、負担になったり周囲の害になったりしないような、うまい付き合い方を考えないといけないだろう。
まあ、すぐ解決するものでもできるものでもないので、長い付き合いになりそうだ。
長い目で見て、焦らずゆっくりと付き合い方を模索していければと思う。