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映画『小学校~それは小さな社会~』を観て、日本を客観的に考える

年始早々、一部の教育関係者の間で話題になっていたドキュメンタリー映画『小学校~それは小さな社会~』を観に行きました。

この映画は、都内の公立小学校の1年生と6年生を一年間追った内容で、ナレーションもなく、子どもたちの自然な姿を映し出しています。映画には、日本の小学校に通った人なら誰もが一度は経験したであろう、さまざまなイベントや日常の喜怒哀楽が収められていました。

観た直後の感想

映画を観た直後の私の感想は、正直に言うと「なんて大人主導で窮屈な教育なんだろう」というものでした。運動会や演奏の練習風景は、子どもたちの個性が押しつぶされているように感じられ、『協調性』を履き違えているかの如く、まるで軍隊のような一糸乱れぬ動きを目指しているように見えました。また、教室内が貼り紙や作品で埋め尽くされている様子にも違和感を覚えました。本来、「学びの場」として整えられるべき空間が、視覚的に過剰な情報で飽和しているように感じたのです。

一方で、先生たちの苦労や頑張りも画面越しに伝わってきました。日々の授業や行事を進める中で、いかに多くのエネルギーを注いでいるかを感じる場面がたくさんありました。ただ、その頑張りが、子どもたち一人ひとりの自由や個性を伸ばす方向に向いているのかどうか、少し疑問が残ったのも事実です。

映画を観ながら、苫野一徳先生の「自由の相互承認の感度」という言葉を思い出しました。学校は、自分の自由を大切にしながらも、他者の自由を尊重する力を育む場であるべきです。けれども、映画の中で描かれていた学校の姿がそのような場になっているかと言われると、少し考えさせられる場面がありました。

特に気になったのは、ある子どもが校庭で遊んでいる同級生を指さして、「あの子、マスク外してる」「よくないよね」と話していたシーンや、係の子が他の子の上履きの揃え具合を点数評価していたシーンです。これらのやり取りを見て、「正しいことをする」という意識はとても大切ですが、それが行き過ぎて、他者を否定する方向に向かってしまうこともあります。ヘーゲルの言う「徳の騎士」のように、自分の正義感に駆られて独善的になってしまうことの危うさを感じました。

日本の学校では、同じ年齢ごとに区切られた学年別のクラス編成が一般的です。この仕組みが、結果的に同質性の高い集団を生み出しています。同質性が高い集団では、「自分たちと異なる存在」を排除しようとする傾向が強まります。そう考えると、世界中で起きている争いや紛争も、どこか似たような構造を持っているように思えます。

観終わった直後の私の頭の中には、日本の学校教育の負の側面ばかりが強く印象に残りました。大人主導で窮屈に見える教育の現場、同調圧力を生み出す教育システム、そして多様性を排除するような集団の在り方。それらが、教育現場における課題として改めて浮き彫りになったと感じています。

山崎エマ監督のこの映画に対する想い・ねらいを聞いて

後日、偶然YouTubeで山崎エマ監督の対談を観る機会がありました。この対談を聞いたことで、私の中で映画に対する印象が大きく変わりました。

対談の内容については、ぜひYouTubeで直接ご覧いただきたいのですが、簡単にお話しすると、監督は日本の教育システムの課題を認めつつも、その中に世界に誇れる要素や文化があることを伝えたいという想いを持っているようでした。

日本の学校では、自分たちで掃除をしたり、給食を配膳したりすることが「当たり前」とされています。子どもたちが係や委員といった役割を持ち、責任を果たす形で学校を運営していくこのシステムは、日本人にとって日常的すぎて特別に感じることは少ないかもしれません。しかし、監督の話によると、海外から見るとこれが非常に新鮮で、評価されるポイントなのだそうです。この話を聞いて、私自身が日本の教育に対して閉鎖的な見方をしていたことに気づかされました。

日本の小学校は、海外の学校と比べて「教育」だけでなく「生活」が大きく関わっていることが特徴だと言えます。生活を成り立たせるためには、大人だけでなく、子どもたち自身が役割を持ち、責任を果たすことが求められます。この構造が、映画のサブタイトルにもある「小さな社会」の意味するところでもあります。

対談では、教育大国として知られるフィンランドの現状についても触れられていました。フィンランドでは、自由や個人を重んじる文化が根付いていますが、その一方で「自分のことしか考えられない子どもたちが増えている」という課題があるそうです。この話を聞き、自由や個人を尊重することが教育においてどれだけ大切であっても、行き過ぎるとバランスを欠いてしまうのだと感じました。

また、対談の中では、日本と欧米の教育の考え方の違いにも触れられていました。日本では「集団の中で自分の役割や責任、居場所を見つける」というやり方が重視される一方で、欧米では「個人としてどうなのか」「隣の人と何が違うのか」という視点が強調される傾向にあります。この点については、日本の教育には課題がある一方で、その中にある「小さな社会」を形成する仕組みは、大切にすべき文化です。そして、そこに欧米の「個人を尊重する視点」をうまく組み合わせることで、よりバランスの取れた教育を実現できるのではないかと感じています。

教育原理を底板にして考えることが大切

映画の公式サイトに書かれていた「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている」という言葉。この一文を読んだとき、単に日本の教育の良し悪しを述べているのではなく、小学校という場で過ごす時間を通じて、日本人としてのアイデンティティが形成されていくのだ、ということに改めて気づかされました。
※保育は、生き物→ヒトにしていく過程かなぁと個人的に思っています。

教育というものの最上位目標、つまり教育の原理は何か――。これは以前「保育・教育の本質について」でも述べましたが、子どもたちが「生きたいように生きられる力」を身につけること、そして「自由の相互承認の感度」を育むことに尽きると考えています。

日本の教育は遅れているから悪い、欧米の教育は進んでいるから良い、といった単純な比較では、本質にたどり着くことはできません。それぞれの教育システムが、この原理と照らし合わせたときに、本当にその目標に向かっているかどうかを常に検証していく姿勢が大切だと感じます。

もしも今の教育が「少し目的から外れているのではないか」「どこかズレてきているのでは」と思うことがあれば、それを見過ごさず、立ち止まって考えることが必要です。そして、その考える過程には、大人だけではなく、子どもたち自身も参加することで、子どもたちの主体性や当事者性を育むことができます。

保育にも世界に誇れるところがある

少し余談になりますが、先日、園の保育環境を見てくださるアドバイザーの方とお話しする機会がありました。その中で、日本の保育には世界と比べても誇るべき素晴らしい点がたくさんある、というお話を伺いました。

例えば、給食についてです。日本の給食では主食・主菜・副菜・汁物といった形で、バリエーション豊かな食事が提供されています。これが当たり前だと思っていましたが、実はこうした形式で給食を出している国は、欧米やアジアを含めてもほとんどないそうです。海外では「え、これがメインだったの?」と思わず驚いてしまうようなシンプルなメニューも多いのだとか。日本の食文化が、給食の豊かさにも反映されているのかもしれません。

また、乳児(0~2歳児)の保育における「育児担当制」も、日本ならではの丁寧な保育の一例として挙げられます。この制度では、特定の保育士が一人ひとりの子どもにしっかり寄り添い、信頼関係を築くことを大切にしています。このような仕組みがあることに海外の方々は驚き、「ここまで手厚く子どもに寄り添うなんて!」と感心されることが多いそうです。

こうしたお話を聞くと、私たちが「当たり前」と思っていることが、国や文化が違えば「斬新」や「画期的」と捉えられることもあるのだと改めて気づかされます。日常の中で慣れ親しんでいるものこそ、見方を変えると大きな価値を持っている場合があります。

今回の映画を通じて、日本の保育や教育のあり方を客観的に考える良いきっかけとなりました。そして、当たり前をもう一度見直し、自分たちの強みや課題をより深く理解する大切さを感じています。

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