【創作 題名のない物語 第1話】海路
セイレーン。まさかこんな場末のスナックで、ギリシャ神話の怪物を想うとは考えてもいなかった。しかし、彼女の歌声は、あまりに魅惑的で、異世界へと誘う香りに包まれていた。
歌い終えて、数人の聴衆に頭を下げると、隣の席に戻ってきた。
「いかがでした」
いたずらっ子のような笑みで尋ねてくる。薄い水割りを一口飲んでから応える。
「語彙力が少なくて申し訳ない。素敵だったという言葉しか出ないです」
「良かった、安心した」
そう言うと正面に向き直り、ビールを口元に寄せる。つい、木元の視線が口元に向かう。
「次の曲は何にしますか」
慌てて視線をカラオケのリモコンに戻す。
「1曲だけで十分、というか、いつも1曲だけ歌うことにしているのです」
(そういうものですか)とは、口には出さない。彼女がそういう流儀なのであれば、それに従うだけ。それほど親しくも無いのに「もっと聞きたい」と要求することもできない。
「歌わないのですか」
「爺さんの遺言で、酒の席での歌は駄目なのです。『お前の歌は酒を不味くする』と」
西野は何も言わずに頷くと、またビールを口にした。木元の持ちネタ「遺言ジョーク」は全く響かないようであった。
「玄人はだしというか、お金を取れるレベルでしたね」
「とても、とても」
謙遜はしているが、目元が優しくなる。
他愛も無い会話が続く、人間関係のこと、ドラマや最近読んだ本のこと。
同じ職場ではあるもの、これまであまり交流が無く、一つ一つの話が、新鮮だった。今日は、それぞれが残業をしていたところ、同じような時間に終了したので、流れで一緒に食事をとり、西野から「歌いたい」とのリクエストを受けて、スナックへと来ただけの二人である。
「今日は、素敵な歌が聴けて良かったです。ありがとうございました」
木元は目で「店を出ましょう」と伝え、席を立つ。
「お会計は」
「済ませてあります。歌のお礼に、ここは出させてください」
店を出ると、12月の寒気が頬を叩く。ドア越しに西野の姿を確認し、無言で駅に向かって足を踏み出す。駅の入口で別れの挨拶を受ける。
「今日は御馳走様でした、また、会社で」
笑顔で右手を軽く上げて、別れの挨拶とする。
そのまま踵を返す。連絡先は交換していない、次の約束もしていない。
生き延びた奴よりも、セイレーンの歌に溺れた船乗りの方が幸福だったのかも知れない。そんなことを考えながらタクシーに乗り込んだ。